【前回の記事を読む】「でも痛かったよね」…毒親に逆らった女性が見せた儚い笑顔

転機と新たな苦難

中2になると、父の転勤に伴いアメリカに行ったとのことである。向こうに行きたくなかったが、聞き入れられるはずもない。中3の途中まで向こうで暮らした。アメリカでは身体的暴力がなくなり、その代わり辛辣な皮肉やネグレクト、罰としての食事抜きなどは日常だった。そして、ようやく向こうになじんだかと思うと高校受験のために帰国させられた。

「日本では高校の寮に入りました。人と一緒に暮らして初めて知ったんですが、みんなお互いに挨拶するんですね。おはようとかおやすみなさいとか。あと、食事中におしゃべりするんですね。はじめは気づかずにいて、寮長さんから挨拶しなさいとか、あなた無口ねと言われてびっくりしました」

「寮は、基本的にはまじめな子が多かったんですけど、親の悪口を言う子は普通にいたし、中には夜中に寮から抜け出すような子もいて、ちょっとわたしの知らない世界というか、驚きの連続でした」

彼女はこのとき初めて、自分は人と違う育ち方をしているかもしれないと意識するようになったのだろう。寮に入ったというだけでなく、母親から離れたことが大きな理由に違いない。

このような体験をすると、われわれの中では、自己、すなわちわれわれ自身というものが、とてつもないスピードで、そして思いもかけない複雑さを持って育っていくものだ。海綿が水を吸うように、という古いたとえがあるが、この女性もその繊細な感受性が開花し、多くのものを吸収していったに違いない。

たとえば食事は、朝晩は寮、昼は学食だった。初めて食事の時間が楽しいと感じた。次の月の献立が発表されるのを待ち遠しいと感じた。学食では自分でメニューを選ぶのが嬉しくて、いつも取りすぎていた。

一方、休みで寮が閉まると父方の祖母の家に行ったが、この人はあまり話さないで必要なことを言いつけるだけの人のようだった。祖母の食事の支度をしたり、掃除や洗濯をしたり、

「何かメイドさんのような生活でした。そんな可愛らしい感じでもなかったんですが」

祖母は、昔でいう女中さんのような感覚で孫娘を見ていたのだろうか。でも、

「強くは叱らないけれど、違っていると細かくこうしなさい、ああしなさいと言う人だったので、家事のことをいろいろ覚えました」

祖母としては孫に花嫁修業(?)をさせているつもりだったのかもしれない。

夏休みに一度アメリカの家族のところに行ったが、みんな元気そうで、楽しそうに見えた。自分がいない方が家族は幸せかもしれないという思いがよぎったと言う。居場所がない気がして寮が恋しかった。