私の戦中戦後

やがて疎開が始まる。国民学校二十八校のうち、二十校が神奈川の奥に集団疎開した。

後から聞くと、そのあたりは相模湾から一気に飛行機が上ってくる場所で、土地の人たちは逃げる算段をしていたという。一般の人たちも三万人近くがつてを頼って安全な場所に移っていった。道の片側の家が延焼を避けるために壊された。建物疎開である。

いつも一緒に遊んでいた道子ちゃんの一家もそのために越していった。駅のホームで手を振って別れて、それきり会うことはなかった。私の中に残っているのは、おぼろな面影と「道子ちゃん」という名前だけだ。

わが家も祖父の実家のある山口県の下松に疎開することになった。

今と違って山口は遠い。途中でどこかに泊まったのだろう。汽車はぎゅうぎゅう詰めで便所も使えず、私は祖母に抱えられて窓から降ろしてもらい、停車した駅の便所に走ったことを覚えている。

到着した駅からかなりの距離を歩いて辿り着いた村は緑の畑が広がり、大きな木もたくさんあった。夜中に起こされることもなく、私は戦争を忘れた。

いつ終戦を迎えたのか。私にとっては相変わらずの夏の暑い日々でしかなかったが、大人たちの話がそれまでとは違うことだけはわかった。