ようやく涼しくなった頃、近所の畑で分けてもらった芋を抱えて帰ってくると、家の前に、カーキ色の軍服を着て大きなリュックを背負った男の人がいた。父だ。

私は「お父ちゃん!」と叫んでかじりついた。父が無事で、比較的早く横須賀に帰れたことは幸いだった。

横須賀もいくつかの軍事施設が爆撃されただけで、被害はほとんどなかった。米軍はすでに勝利後の軍事利用を考えていたと言われている。けれども建物疎開で家屋が壊され、瓦礫だらけだった。そんな町を大勢のアメリカ兵が歩いていた。

ついこの間までは鬼畜米英を叫んでいた大人たちはどう気持ちを切り替えたのだろう。けれども子供たちはすぐに馴染んだ。私も「ギブ ミー チョコ」という言葉を知った。

住居は不足していた。とりあえず知り合いの家に転がり込んだが、同じ屋根の下には他の家族もいて落ち着きのない暮らしが続いた。年が明けると三浦半島の漁村に移ることになった。そこには旧家に嫁いだ父の伯母がいて、部屋を貸すと言ってきたのだ。

目の前の海では魚が、後ろの台地では野菜が取れたから、戦後の食糧難をしのぐにはもってこいと父は思ったようだ。