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雛人形

いま私の手許には、セピア色に褪せた、葉書よりやや大きな写真がある。­­­

祖父母と若い父と母、それに祖母に抱かれた赤ん坊がいて、後ろの床の間にはこぢ­んまりとした雛人形が飾ってある。­­写真の裏には、昭和十四年三月三日という日付と、浜松市の写真館の名前が入って­いる。

一月に生まれた私の初節句に写真屋を呼んで写したものらしい。­­みんな和服に威儀をただし、しかつめらしい顔をしているが、雛人形の脇には薬玉­や飾り物が下がっていて、このあとすぐに笑みがこぼれたのではないかと思わせる、­どことなく華やいだ空気がある。

父母にとっては待ちに待った初めての子、祖父母に­は初めての孫だった。­­その後、妹二人が生まれた。以来雛人形は父母の手で、やがては娘たちの手で毎年­欠かすことなく飾られてきた。

­娘たちが次々に結婚して家を出てしまうと、父は私に訊いた。

­「お雛様、持っていくか」­

「うちは男の子ばかりだから、ここに置いといて」

と私は答えた。­

「おお、そうか」

­­父はとても嬉しそうな顔をした。­­­その顔が何とはなしに心に残っていたが、父が遺した身辺雑記を読んで初めてその­訳がわかった。『雛人形』という文章は、こんなふうに始まる。­

「はつきりしない薄ら寒い日だ。年寄り二人でお雛様を飾る。並べてみれば昔の姿に­かへる。この人形については思ひ出も深い」

­­私が生まれた昭和十四年といえば、日中戦争がもう始まっていて、それどころでは­ない世の中だったが、やっと授かった娘のために、何とかお雛様を飾ってやりたいと­父は思った。

浜松では手に入れることができなかったので、当時浅草にいた父の兄に­探してもらうことにした。何とか人形は見つかったが、戦時のためか送ることができ­ない。­­­そのとき届けてくれたのが、兄の長男の常春で、当時東京府立工業学校に通っていた。­­

若い子がそんな使いをしてくれたのが、父には思いがけなかったらしく、

­「誰が持つてきてくれたと思ふ?­ 二月の日曜だつたらう。常春が遠路はるばる夜行­か、早朝の汽車で持参してくれた」

と書いている。­­雛人形は、七十センチ四方、高さ四十センチの朱塗りの箱に全部収まるように作ら­れている。コンパクトなのは、時節柄いつでも持ち出せるように工夫されたのだろう­か。­­

箱はそのまま台になる。その上に緋毛氈ひもうせんを張った段々を組み立てると、雛壇が出来­上がる。人形は、握りこぶし大の木目込みで、男雛女雛をはじめとして全部で十五体、­顔も衣装もなかなか品がある。