③ 日本住血吸虫症(にほんじゅうちきゅうむししょう)の調査(WHO)の事例

「日本住血吸虫症」とは、住血吸虫科に分類される寄生虫による日本住血吸虫病のことです。人を含む哺乳類全般の血管内部に寄生感染する寄生虫で、感染症の一種です。

この感染症は、長い間原因が明らかにならなかったため、住民に多大な被害を与えてきました。特に、農業で田んぼに入る機会が多い農家の人々にとっては、甚大な被害が出ました。

古くは、武田家の軍学書「甲陽軍艦」(天正3(1575)〜5(1577)年・天正3〜5年頃に書かれた書)にも、腹が膨れるという意味の「積聚脹満(しゃくじゅのちょうまん)」の文字があり、風土病として恐れられていたようです。この病気の発生場所としては、山梨県の甲府盆地、千葉県、静岡県、広島県、福岡県、佐賀県などがありました。

日本住血吸虫症の寄生虫は、ミヤイリガイという淡水産巻貝を中間宿主として、河川に入った人や、ネコ、イヌ、ウシなどの動物などの皮膚から吸虫の幼虫が寄生し、寄生されると皮膚炎を初発症状として、高熱や下痢症状を起こした後、成虫へと成長した吸虫は、胃、小腸と大腸、脾臓、膵臓、胆嚢から肝臓へと血液を運ぶ血管の肝門脈内部に巣食います。

成虫は、血管内部で生殖産卵をして多数寄生すると、その感染した人は肝硬変による黄疸や腹水による腹の膨れを発症し、死に至ります。さて、寄生虫との百年戦争と言われるのは、江戸時代から医師により治療法が研究されていたようでしたが、ほとんど効果がありませんでした。

治療薬として、1923年頃には、酒石酸アンチモンなどの化合による駆虫薬の「スチブナール」が開発されましたが、この薬の投与では20数回の静脈注射など、困難な治療とともに、体内の日本住血吸虫を殺傷する薬のため副作用として関節の激しい痛み、嘔吐などが起き患者の肉体的負担も大きいものでした。

1970年頃には、ドイツから副作用低減の新薬「プラジカンテル」が利用されるようになりましたが、やはり対症療法でしか使用できませんでした。そのため、日本住血吸虫の撲滅には、ミヤイリガイの駆除に力を入れる以外ないとして、さまざな方法が採られました。

山梨県のミヤイリガイの生息濃厚地域では、草むらを素足で歩いただけで感染してしまう恐れがありました。大正期には、甲府盆地各地の有病地水田において、少ない所でも一平方メートルあたり100匹を採取、ひどい場所になるとミヤイリガイが何層にも重なっていたと言います。ミヤイリガイが多く生息していた水田など、2万ヘクタール近い有病地が存在していました。

「ミヤイリガイをなくせば地方病はなくなる」と聞いた農民が、自発的に行動を始めました。それは、女性や幼い子供たちをも動員し、箸を使って米粒ほどの小さなミヤイリガイを1匹ずつお椀に集めていくという、気の遠くなるような涙ぐましいものでした。その結果、甲府盆地の水路をコンクリート化するなど、努力を続け、とうとう、1996年「山梨地方病の流行は終息し安全である」として、地方病の「日本住血吸虫病」は、115年目にしてようやく終息宣言を迎えたのでした。

1973年には、WHOの住血吸虫症専門家委員会は、現在の状況下で日本に住血吸虫症が再発するかどうかは疑問であるとしながらも、日本での「日本住血吸虫症」の経験を事例として、住血吸虫症に罹患している全ての国々で共有されることを勧告していました。

また、「日本住血吸虫症」の終息宣言を発表するにあたって、山梨県健康増進課は、1995年、エコアに、感染の恐れのある野鼡の捕獲調査をはじめ、1996〜2000年までの5カ年間、甲府盆地一帯(釜無川と笛吹川により形成された三角地帯を中心)について、マウスによる浸漬試験について20カ所の定点調査と、ミヤイリガイの採取試験について120カ所の定点調査を依頼し、継続して調査を実施しました。

さらに、2001〜03年まで、同試験を半数にして調査を行いました。これらの調査によって捕獲した野鼡の各臓器内を精密に調査したところ感染は確認されませんでした。この山梨県の調査により、WHOは、「日本住血吸虫症」について終息宣言の報告をしました。

※本記事は、2018年6月刊行の書籍『EARTH 2050』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。