第2章 解釈

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由美がケントのデスクに近づいてきた。いつもより歩幅が広い。

「おはよう。ケントくん。ちょっといいかしら」

いつもとは違う挨拶だ。由美の声は低く抑揚がなかった。いつもは綺麗にセットされた髪が乱れていた。由美の手招きにより廊下を出て、背中を追って廊下の行き止まりまで進んだ。急いでいたのでペットボトルを持ったままだった。

由美はこちらを振り返ると腕組みをした。そして、これまでに聞いたことのない低い声で言った。

「私ね、イスラーム教徒の女性は、従順でおしとやかで男性の三歩後ろを歩くようなものだと思っていたの。違うかしら?」

どう答えるのが正解なのだろう。由美が望む答えが分からない。

「……その人によるんじゃないでしょうか……」

腕組みをした由美は右足のハイヒールの先をカツカツと鳴らしていた。眼が充血しているようだ。昨夜は眠れなかったのだろうか。間違いなく苛立っている。

「それはどういう意味? 人によるって。イスラーム教徒っていうくくりの中で生きているわけだから、女性とはこうしなさいとか親に教育されるはずでしょ」と由美は言った。由美のこの雰囲気だと言われっぱなしになってしまう。これまで勉強してきたことを今、きちんと伝えるべきだと思った。

「……イスラーム教徒も住んでいる国で随分違うようでして……女性が一人じゃ外出できないサウジアラビアなどもありますけど……でも、イスラーム教徒って東南アジアに意外に多くて、インドネシアは3億人、マレーシアでも1億5000万人。そういう国では女性も自立しているんじゃないでしょうか……」

「何なのそれ。詳しすぎるじゃない。東南アジアの状況に」

「……数ヵ月いろいろと勉強したので……でも、僕のこの知識が正確かは分かりませんけれど……感覚的にそうだろうなと……」

「何ナノ。そのカンカクテキって。いやらしい」。ヒールの音が速く高くなった。

「……いやらしいですか?」

「いやらしいわよ。じっくり調べちゃいました、みたいなその感じ。で、どうなの実際、聞き取り調査とかしてハラール女性の心理は把握できたの?」

手に持っていたペットボトルを落とした。鈍い音がした。水しか入っていないのに。由美に対しては壁になって黙っているべきだった。やはり意見を言わないほうがいいんだ。でも誤解されたままではまずい。何か言わないと。

「誤解です。あれは英会話のレッスンです」

「レ・ッ・ス・ン? なわけないでしょ。だったら英会話スクールとかの中でやるでしょ。カフェでやる? そんなこと。しかも嬉しそうに話してたわ、2人で。そうよ、それに英語じゃないでしょ。あの口の動きは。そうだわ日本語だわ。何ナノ。どうせ私は年増の女よ。だからって嘘つくわけ。侮辱もいいとこだわ。場合によっちゃ組合に訴えるわよ。騙されたって」

由美は天井を睨みつけていた。返す言葉がみつからない。由美にとって僕はどういう存在なのだろう。

由美が視線を天井からこちらに向けた。なぜか笑っているようだった。

「そっか、ケント。お前もワルだな。2人のことが秘密だから。どんなに私が傷ついても誰にも言えない。そこまで考えての愚行なのね。ひどいわ。ケント。お前って奴は」

ただただ頭をたれ聞くしかない。何を言っても理解されないと思った。

「今日は来ないでよ。スリーファイブに。34階までならいいわ。許すわ。でも35階まで上がってこないでよ」

由美は床に転がったペットボトルを蹴飛ばした。ヒールの先が当たり、裂けたところから水がこぼれた。「拭いときなさいよ」と、これまでで一番の低い声で由美は言った。そしてヒールを鳴らし行ってしまった。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『きみのハラール、ぼくのハラール』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。