第2章 解釈

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「この鶏はイスラーム教徒が祈りながら屠殺したのですよね?」と聞いたけど、彼女は「Not Sure(どうですかね?),but, It’s HALAL(でもハラールですよ)」と答えた。

経営者でもない彼女が原料の鶏肉の仕入れ先など知るはずもなかった。それは日本でも同じことだ。牛丼屋の店員に牛の屠殺方法を聞いたって同じ答えだろう。

彼女が行ってしまったあと、マリーが言った。

「その鶏肉はハラール肉ですよ。間違いないです。ケントさんの詳しく知りたくなるその気持ちは分かります。食品のプロフェッショナルですからね。ですけど、ここの店主も店員も全員イスラーム教徒です。ハラールでないはずがありません。安心してください」

マリーはテーブルに置いてあった調味料類の中からソルトを取り少しばかりナシゴレンにかけた。その塩はハラールなのか? そういう疑う気持ちを捨てるべきと思った。その視線に気がついたのかマリーが言った。

「ケントさんだから正直に言います。実は私も同じように判断に悩むことがあります。ハラールなのかどうか。食べて良いの悪いのか。マレーシアに住んでいたときも同じです。しかし、そういう悩むことこそが信仰なのです。判断が正しいのかを考える。そのこと自体、それに費やす時間がまさに信仰なのです」

「そうなんですね。僕がハラール食品を作るのに費やした時間は、イスラーム教を信仰した時間ということになりますかね?」

「そういうことになります。日本の人達から“お祈りをしなくていいのか?”と聞かれますが、物理的、時間的に制約がある場合は心の中だけで祈ることもあります。その時間をイスラーム教に捧げたのですから。私の友人の一人はマレーシアの大学で食品加工学を専攻しました。彼女は大学時代にはクラスの仲間と月に一度、ハラールについて勉強会をしていたそうです。食品加工技術は高度化しています。消費者が手にとる食品には、その技術が注ぎ込まれています。専門家の彼らにもハラールかどうか、判断できないことがあるそうです。でも、その考える時間こそが信仰なのです」

「つまり、悩み悩み悩む。この時間も信仰。祈っているのと同じ行為なんですね」

マリーは頷いた。

「じゃ、僕はもう立派なイスラーム教徒ですね」と言った。マリーはそうですねと言って微笑んだ。

「今言ったことを日本の方々は理解していません。白か黒かに分けて終わり、のようです。なにもかも細かく分類したいようです。日本が島国だからかもしれませんね」

「島国だということと、分類したがる性質と、この2つが関係あるのですか?」

「これはもちろん私個人の考えです。マレーシアはインドネシアと国境を接していますが、国の単位では、はっきり分けることができます。しかし民族は緩やかにつながっています。線を引くことは難しいのです。平面な地図に、定規で線を引くように分けられません。ましてやイスラーム教徒という括りで考えればもう線はなくなり、個々の点と点が網の目のようにつながっている感じです。線を引くとか分類するとかは政治の仕事で、市民には無関係というよりも無関心なのです」

「なるほど。それに対して日本は、人が住んでいない海に国境があって他の国としっかりとはっきりと分断している。その中に似たような、言ってみれば多様性のない民族が住んでいる。だからこそ意識的に分類したがるという論理ですね」

「江戸時代の鎖国がいけなかったですかね」と言ったらマリーは笑ってうなずいた。

そうかもしれない。曖昧にすることは決して悪いことではない。

嘘はいけないと教わるが、その嘘の基準はだれが決めたのだろう。あくまで政府や国がその領域内で暮らす人達の権利を守るためだ。領域内に住む国民のための国家、領域内国民国家を当たり前と思う日本に対して、イスラーム教徒であるというネットワークでつながり暮らすマリーとでは思考が違うのはしごく当然だ。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『きみのハラール、ぼくのハラール』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。