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ケントは1週間に1度、英会話教室に来ていた。いずれは大学の教員になって海外の学会で研究発表することを夢みていた。英会話は必須だと思っていた。教室は池袋駅近くの雑居ビル5階のイングリッシュ・キャンプ。入会金2万円を支払えばマンツーマンで1回あたり40分間2千円。予め購入した10回分のチケットから支払っていく仕組みだ。

講師陣は多国籍でアメリカ、カナダ、イギリスを始め、ネイティブでないフィリピン、シンガポール、マレーシアなどの講師も在籍していた。専任の講師もいるが、ほとんどはアルバイトで、予約の多くなる夕方以降に来ていた。

マリーもそのうちの一人だ。生徒はホームページ上の事項紹介ページを頼りに受講予約を入れる。マリーのページには「マレーシア出身で日本のアニメに憧れて日本に来て5年目です。大学でコンピューター・サイエンスと日本文学の2つを専攻しました」と書いてある。右上にはヒジャブを被った笑顔の写真もつけられていた。

受付の先には、通路を挟んで両側に細かく仕切られた個室があった。3番と書かれた個室が今日のマリーの部屋だった。部屋は3畳ほどで、小さなテーブルが1つと、向かい合うようにスチール製の小さな椅子が置かれていた。

ドアがノックされ、清潔そうな男性が入ってきた。髪は自然な黒さがあり毎月カットしているようで整っていた。外に出ない仕事を想像させるように白い肌だった。健康そうではあるが顔も体も細かった。日本で流行りのジャニーズ系ではないが、好感の持てる第一印象だ。

「Hi I am Kent.  Nice to meet you(ケントです 宜しくお願いします)」と彼が笑顔で言った。口角が上がり綺麗な歯が印象的だった。

「Nice to meet you too. I am Mary(マリーです こちらこそ宜しく)」

「Are you Muslim?(先生はイスラーム教徒ですよね)」

マリーはいきなりの質問に戸惑った。何人もの生徒と話したが、イスラーム教についていきなり質問されることはなかった。日本人は宗教には関心がないのか、関心を持ってはいけないと教育されているのだと思っていた。

「Yes。イスラーム教に興味がありますか?」と聞いてみた。彼は「はい」と頷いてからすぐに「ハラール食品をどう思いますか」と聞いてきた。マリーは驚いて「なぜその言葉を知っているのか」と聞いた。

彼は会社でハラール食品を作る。その情報を得るためにマリーを選んだのだ。日本にはもっと多くのハラール食品があるべきだと思っていたマリーは、その思いを彼に伝えた。すると、彼が言った。

「ハラール食品はどうやって作るのですか?」

マリーは答えに窮した。ハラールの概念は知っているがハラール食品の作り方まで考えたことがなかった。少し考えてから「おそらく基準があってそれに従って作るんだと思います」と答えた。

「ハラール食品の基準とはどのようなものですか?」

彼はノートを開き、新聞記者のようにメモを取ろうとしている。

「……わかりません。豚肉とアルコールを使わないことでしょうか?」

「それ以外に細かな基準は無いのですか?」

彼は次々と質問してきた。予め準備していたのだろう。マリーはテーブルに重ね合わせた両手を組み直した。「わかりません。ハラール食品と書いてあれば安心して食べることができます」。そう言って、マレーシアで食品を選ぶ時のことを思い出していた。

ハラール食品を特別に意識して選ぶことはなかった。手にとった商品にハラールマークが付いていれば、まあ安心ねと思った。その程度のことだった。イスラーム教徒になったことだってそうだ。両親がイスラーム教徒だったから従ったまでだ。友人にはヒンドゥー教徒のインド系や、また仏教徒の中華系もいたけれど。イスラーム教徒になろうと強く望んだわけでもなく、また強く拒否する理由もなかった。このヒジャブもそうだ。小学校卒業時に被り始める家庭もあれば、初潮を期に被る家庭もある。

「ところで、これ何だか分かりますか?」と聞いた。ただ聞いてみたくなった。

「ヒジャブですよね。知っていますよ」

「なぜ被るか知っていますか?」彼は首をかしげた。

「わかりません。なぜですか?」と言った。

頭の中で整理しつつ説明した。コーランを元に考えれば女性らしさをみだりに見せないために手と顔以外を隠すのだと。全身黒ずくめで目だけ出す国もある。イスラーム教を国の宗教とするサウジアラビアなどだ。マレーシア、インドネシアではヒジャブを被らない女性もいるなど。親やモスクで聞いたことを思い出して説明した。

「日本の人達は誤解しています。イスラームは宗教です。規則やルールではないのです。サウジアラビアのように例外的な国もありますが」

女性が虐げられているとか、男性と話してはいけないだとか誤解している。学校では男子とも、もちろん話をするし、放課後にはインド系・中華系の男友達とフライドチキンを食べたりもした。皆が共通で食べられるのが鶏肉だからだ。女性一人で外出できない。車を運転できない。そんな国もあるが、クルアーンにはそのようなことは書かれていない。

でも、なぜイスラーム教徒でもない日本の人がハラール食品を作るのか聞いてみた。彼はごく自然に説明した。

「ご存知のように東京オリンピックの開催が決定しました。世界中から観光客が来ることが期待されています。世界人口 60 億人のうち 12 億人がイスラーム教徒だと言われています。そういった方々にハラール食品を食べてもらいたいのです。でもハラールは難しいです。先日、ハラールを認証する会社から説明を受けました。でも充分に理解できないんです。そこで今日はマリー先生を予約したんです。イスラーム教徒に聞くのが一番正しいだろうと思って」と彼は答えた。

マリーはテーブルの手をまた組み直し、深く息を吸った。脳内に酸素を行き渡らせたかった。彼が求めている答えを探そうとした。そして静かに言った。

「ハラールかどうかはイスラーム教徒その人自身が決めることです。私の判断基準は親の判断基準に従うことです」

喋っていくうちにイスラーム教とはどういうものか、という普段は意識しない疑問が湧き上がってきた。

「ハラールかどうかはイスラーム教徒でないと判断できないと思います。基準を示せと言われてもできそうにありません。実際の食品を見て、作り方を聞いてそこで判断するしかないと思います。もちろんイスラーム教徒が判断するしかないと思います」

「では、イスラーム教徒ではない僕には判断できないっていうことですか?」

彼はシャープペンを置いた。机の横に立てられ、ラベルが綺麗に剥がされた透明のペットボトルの水を飲んだ。

マリーはしばらく考えてから、イスラーム教を理解してもらう最も良い方法を考え出そうとしていた。そして「日本の神道に置き換えて考えてはどうでしょう?」と彼に聞いた。

「どういう意味ですか?」と彼は驚いたような顔をこちらに向けた。

「神道は多神教ですね。イスラーム教やキリスト教は一神教です。唯一の神を信じています。多神教だから周りにある全てのものに神が宿っている。あってますか?」と聞くと、彼は軽く頷いた

「そうすると、あなたが今飲んでいる水にも神が存在していることになりませんか?」と言って、彼のペットボトルを指さした。

彼は不思議そうにペットボトルをしばらく眺めてから、「そうなりますね」と言った。

「でも、ですよ。私にはその中に神は見えません。私が信じる神は心の中にあります」

人差し指で両胸のちょうど、真ん中あたりを指した。

「でも、あなたにはその水の中に神が見えているのではないですか? つまり、そういうことです。人によって宗教によって信じ方が違うんです。どんな風にどう信じるのかの基準を示すことは大むずかしいのです」

「そうなんですか……イスラーム教徒でもハラールかどうかの判断がむずかしいのですね……」と言いながら彼は頭を掻いた。

「私にとっては、神道には分からないことが沢山あります。天皇は神なのですか?」と聞いた。

「いいえ。今はもう神ではないです。ある時を境に人になったんです。確か、第二次世界大戦後、神だった天皇が象徴になったんですかね?」と彼は額に手をあて困ったような顔で答えた。マリーは声に力を入れて言った。

「はっきりしないですよね。天照大神の子供は神であり天皇であった。代々、生まれてくる子供は神だったはずです。イスラーム教もキリスト教もユダヤ教も神を信じています。でもそれは生きているとか死んでいるとかを超越した存在です。日本では神の子供が天皇として崇められていた。でも今はもう神ではない。こんな不思議なことがありますか?」

彼は無言で下を向いた。言い過ぎたかもしれない。日本の人達は宗教のことで議論してはいけないと教育されているのだろうか。日々、何を信じて生活しているのだろう。嬉しい出来事があれば神に報告する。辛いことがあれば神にすがる。それが無い日々など考えもつかないと思った。彼はまだ下を向いて考えをまとめているように見えた。

マリーは後悔していた。「すいません。変な話をしてしまったようです」と言って頭を下げた。ようやく顔を上げた彼が言った。

「勉強します。会社の業務のほんの一つとしてハラール食品を考えていました。でも、そんな軽い気持ちではハラールやイスラーム教が理解できないことに気づきました。ありがとうございます」と言うと頭を下げた。しばらくの間、頭を下げ続けた。

テーブルに置いてあった小さなアナログ式の時計を見た。40分が経過したのを確認しマリーが言った。

「今日はありがとうございます。改めてイスラーム教を考えるきっかけになりました。

Thanks a lot. See you soon (本当にありがとうございます また次回)」

「It was so nice meeting you. See you next time(こちらこそ楽しかったです また次回)」 

彼は丁寧にお辞儀をしてから部屋を出た。

数日後、マリーは部屋でパソコンの画面を見ていた。英会話教室からメールが届いたのだ。教室外レッスンを希望している生徒がいると書いてあった。教室の規定では3レッスン分以上、40分の3倍、2時間以上の予約を条件に学外でのレッスンを認めていた。生徒の名前は KENT SUZUKI 。ハラールのことを知りたいと言っていた彼だ。希望日は翌週の水曜日19時〜21時。カレンダーで予定を確認し、OKと返信した。

指定されたカフェに着くとすでに彼は来ていた。窓側の席に座っていた。こちらに気づくと立ち上がり軽く頭を下げた。黒のジーンズに茶色の靴。白のTシャツの上にデニムのシャツを着ていた。爽やかな笑顔を見て、間違いなく彼だとわかった。

「Thank you for coming(きていただきありがとうございます)」

「Sure(もちろんです)」と言って3枚のチケットを受け取った。

「本当にありがとうございます。学外の予約をするのに随分悩んだんです。英語を習うのが目的の教室なのに、英会話よりもハラールやイスラーム教の話に興味があって。教室の外でじっくり話を聞きたいと思ったんです」

紅茶が2つ運ばれてきた。Kentはソーサーに添えられたスティック・シュガーの上端を指で切り取り紅茶に入れた。マリーは砂糖を使わなかった。

「砂糖は入れないんですか?」とKentが言った。

「そうですね。なぜだかそのタイプのものが好きになれなくて」とマリーは答えた。

Kentは片目をつぶり、空になったスティック・シュガーの筒の中を覗き込み「怪しいですかね」と言った。

「そっちじゃなくて、紅茶に入れた砂糖の方ですよ」と言うと、Kentは微笑んだ。

「私のほうこそ、ありがとうございます。先日はハラールについて質問してくださって、私自身改めてイスラーム教を学ぶ良い機会になりました」

両手をテーブルに載せ、頭を下げた。

「あれから私もハラールのことを勉強したのですが、やはりよく分かりません。イスラーム教徒の私がもっと詳しいはずなのですが。親の躾とハラール基準は同等なんです、私にとっては。おそらく他のイスラーム教徒も同じだと思います」

「そうなんですね」と、紅茶を一口すすってからKentが言った。

「ところでなぜマリーさんは日本を目指したのですか? コンピューター・サイエンスと日本文学を大学で勉強したのは知っていますが、ハラール食品もない、イスラーム教徒に対する理解も少ない日本を目指したのはなぜですか?」

「それも親の躾、に従ったということですね」

「躾、ですか?」と、Kentは驚いた様子でこちらを見た。

「そうです。躾の手本が日本なんです。ルック・イースト政策を知っていますか?」

Kentは首を横に振って「知らないです」と言った。

「もう40年前の政策です。マレーシアから見て東側にある日本をお手本として経済発展を目指そうというものです。そういう雰囲気の中で私の親は育ちました。その親の子供ですから、私も日本に興味がありました。憧れですね」

Kentは、右手に持った紅茶のカップに左手を添えて、スープを飲むようにゆっくりと飲んだ。

「憧れの日本に来られた。それだけで充分です。思っていた以上に街は綺麗です。ゴミ一つ無い綺麗な街ばかりです。日本の人も優しい方ばかりです」

「良かったですよ。そういういい印象を持ってもらって」と言って、Kentはカップをソーサーに戻した。

マリーはお気に入りの薄い桜色のヒジャブを指でなでながら言った。

「ただ。私のこの格好です。ヒジャブを被っていますので好奇の目で見られるのが少し嫌です」。マリーは照れたように笑ってから続けた。

「マレーシアにはたくさんの人種がいます。肌の色も様々。背の高さだってものすごく高い人もいるし、そうでない人もいます。見た目が違う人だらけです。というよりも同じような人を見つけるのはまず無理です。違いをアピールしあっていますので」

Kentは紅茶を見つめながら言った。

「大変ですよね。生まれ育った国以外の場所で暮らすのは」

「そうですね。ヒジャブを被っていると神に守られている気持ちでした。でも日本では違います。更にもう一枚ヒジャブを着たい気持ちです。女性らしさを覆い隠すためのヒジャブが、他人の目を奪う結果になってしまっている。正直恥ずかしいです。体の中身を見透かされているようです」

マリーは両手をテーブルに乗せて頭を下げた。

「すみません。英会話のレッスンなのになんだか愚痴を聞いてもらっているみたいで」

「No problem(問題ないですよ)。中身がどうであれこうやって英語で会話していますから」

「Kentさん。ありがとうございます。自分のことをこうやって話す相手がいないんです。教室では会話しているようでいて、心はそこに無い感じですし。生徒さんが言いたいだろうことを推測して口に出す。これの繰り返しです。沢山の人と会って会話しているのに、どんどん孤独になっていく。そんな気持ちです」

マリーは自分でも驚くほど心に正直に話をしていた。Kentになら言えることがたくさんあると思うと嬉しくなった。

「ハラール食品を作るのには少し注意が必要です。日本の人達は少し勤勉すぎるというか、真面目すぎるという印象がありますので」

「真面目はだめですか?」とKentは前かがみになった。

「日本の人達は厳密にキチンと行動することを良しとしています。1分の単位で行動しています。自分が1分を守ろうとすると、相手にも1分の遅刻も許さないという気持ちになります。もちろん時間を守ることは大事です。でもその厳密さをすべての物事に当てはめるべきではないと思うのです。もっとゆったりと過ごすことも必要です。寛容さも必要です」

「ですよね」とKentは頷いた。

「イスラーム教では1日5回お祈りをします。その時刻を知らせるアザーンというものが街中で流されます。歌のようなものですね。それを聞いてからモスクに向かう。なんともゆったりとした雰囲気です。数分間流れるアザーンを聞くだけで落ち着けます。数秒のうちに終わってしまうチャイムとは違います。ドアが閉まるのを知らせる駅の音は"早くしないと乗り遅れるぞ"と私達を急かしています。1秒も遅れず出発することが求められているのですからね」

マリーは躊躇していた。本当に言いたいのは、日本人の本心が理解できないということを。そんなことを彼に言っても仕方ないと思い、「それに……」と言って言葉が詰まった。柔らかな笑顔のKentが「続けてください」と言った。

「日本人は心の中で本当はどう思っているのか。それが分からないです。相手の顔色をうかがいながら、言っていいことと、言ってはいけないことを判断していませんか?」

驚いたことに「もちろん。しています」とKentは言った。そんな気持ちでは楽しく毎日過ごせないだろうと思った。日本人は自分を押し殺して生活しているのだろうか。

「心に現れた気持ちを捻じ曲げていませんか? その瞬間にしか言えないことがあると思うのですが? 例えば、好きだと思っていても、今言うべきじゃないとか悩んだりするのですか?」

Kentは黙ってしまった。紅茶のカップを持ち上げ静かに飲んだ。そして言った。

「おっしゃる通りです。なんであの時、こう言わなかったんだろうと思うことばかりです。本当の自分の人生を生きていないんです。なんとなく周りの雰囲気で、この子が好きなのかもしれない、告白しないといけないのかもしれないと思ってしまいます。つきあいが始まってからは、2人の関係を壊さないことばかり考えます。周りを見ながら生きているんです。 27 歳になろうとしているのに自己主張できないんです」

Kentは下を向いた。カップの中に懺悔しているようだ。またKentを苦しめてしまった。お互いを理解するためと思っていても、相手を困らせてしまう。有意義な意見のやり取りができないものだろうか。議論とケンカは別物なのだ。

「すみません。答えにくい質問をしたようで。ただ一つ言いたいのは、真面目に考え過ぎて自分を苦しめないようにしてください」

Kentはしばらく返事をしなかった。深く息を吸ってから大きく吐いた。何かを吹っ切るように。そして言った。

「ありがとうございます。テレビで記者会見できるような画期的な商品を作りますよ。出来上がったら絶対に買ってくださいね。いや、違いますね。出来上がったらまず持っていきます。いや、違うな。またこういう学外レッスンでお渡ししますので。ですからまた予約します。宜しくお願い致します」

Kentはテーブルに両手を載せて頭を下げた。私がしたのを真似るように。

「はい。期待しています。頑張ってください。私に分かることは何でもお伝えします。私の勉強にもなります。宜しくお願い致します」

頭を下げた。Kentの頭と触れたのがヒジャブ越しに分かった。

水曜日の時短勤務後、何する予定もない由美は一旦は巣鴨の自宅で過ごしたが、ありあまった時間を潰すため池袋に来ていた。一人で入るような店もなく、ただただ駅周辺を歩き回っていた。通りに面した喫茶店の窓側になぜだか目が止まった。よく見ると薄い桜色の布を被った女性が座っていたからだ。あれがイスラーム教の女性なんだと分かった。イスラーム教徒も喫茶店にも入るんだ、と思うと不思議だった。何を飲み、何を食べているのか気になって近くまで行ってみた。すると、その彼女の向かいには見慣れた顔があった。ケントだった。嬉しそうな笑顔だった。

これは「フォルト」なのか「レット」なのか。

空を見た。明るすぎる街で小さくなった黒い空。よどんだ空気で色がくすんだ月が見えた。テニスボールのようでもあり、焼酎に沈む梅のようでもあった。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『きみのハラール、ぼくのハラール』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。