三年生になって、担任の教師が家庭訪問に来て、意外な提案をした。欠席の多い澄世には、公立高校ではなく、私学の女子校がいいと言う勧めだった。大阪・阿倍野にある古い伝統のある仏教系のO女子高校、ここへなら推薦だけで受かると言った。

仏教系のO女子高校では、毎朝朝礼があり、儀式歌を合唱し、仏陀の説法を伝えたものとされる法句経を唱え、バッハの『G線上のアリア』を聴き、黙祷をした。週に一度、宗教の時間もあった。教師でお坊さんの先生が担当し、生徒の殆どは退屈そうだった。

「人は亡くなっても、四十九日間は、この世とあの世の境目にいるんです。だから、あの世に成仏できるように、四十九日に法要をしてあげるんです」

こんな話を、澄世は関心を持って聴いた。

「先生は、お釈迦様のいらしたインドへ行ってきました。子供達が裸足でね、でもみんな一生懸命に生きている。道には牛の糞があちこち落ちている。でも、感動しました。みんなも機会があったら、是非インドへ行ってみて下さい」

この言葉が、何故か澄世の心に残った。

澄世は箏曲部に入った。もともと音楽が好きだった澄世は、ピアノだけでなく、日本の楽器にも触れてみたかったのだ。

「さくらさくら」「ロバサン」等、簡単な曲から習った。澄世は早く「春の海」が弾けるようになりたくて、クラブ活動だけは頑張った。

足裏のアトピーは酷くなるばかりで、喘息も治らず、やはり学校は休みがちだった。一年生、二年生と同じクラスになった佐紀と澄世は仲良くなった。

二年生の秋、北海道へ修学旅行へ行き、佐紀と同室で過ごし、親交をあたため合った。以後、三十年あまりも付き合う親友になろうとは、この頃は思いもかけなかった。

高校でも勉強は全くしなかった。そのままエスカレーター式に、O女子大学の国文学科へ進んだ。成績のいい佐紀は、当時、競争率の高かった短大の方へ進学した。大学時代も、相変わらず足裏のアトピーと喘息に悩まされ、休みがちだった。