平成二十九年四月七日(金)、うららかな春の宵だった。澄世は散々迷ったあげく、やはり着物で出かけた。K先生が一緒だったら、きっと着物を着て行くつもりだったからだ。こんなに悲しい春は人生で初めてだった。花が好きだというのに、桜が咲いたのも、道端のスミレにも気付かぬ日々だった。

和彦は取引先の仕事を終え、社へは戻らず、大阪・中之島に来たついでに、ふと国立国際美術館へでも行こうと思いたった。今の時期、何をやっているかは知らないが、最近の美術館は金曜なら八時くらいまで開館しているはずだから、いい気分転換になると思ったのだ。和彦はこういう思いつきでふらっと行動するのが好きだった。

福島のなにわ筋を朝日放送ビルを左手に見て歩き、信号を待った。信号の向こうは玉江橋で、少し先を着物姿の女が歩いていた。信号が青になり、橋を歩きだすと、背が高く歩幅の広い和彦は、たちまち女に追いついたが、女の二、三歩後ろにつけ、少し歩調をゆるめた。

女はピンク色の着物に、黄色地に紅い牡丹の花が描かれた帯に、白いレースのショールを肩にかけ、黒のバッグを左手に提げていた。ボブカットの黒髪が着物と合い、垢抜けていて、姿勢よく歩いて行く。

その時、春の嵐が吹き、女の白いショールが和彦の目の前に飛んで来た。和彦は素早く手にキャッチした。

「あっ」と、女は驚いて振り返った。
「どうぞ」と、和彦は手に握ったショールを手渡した。

「ありがとうございます。貴方がとって下さらなかったら、川へ飛ばすところだったわ」
澄世はにっこり微笑んで、お辞儀をした。

少しかすれた高い声だった。澄世は前へ向き直ったが、しばし間をおいて、また和彦の方へくるりと振り返り、物憂い顔で言った。