素直な澄世は、母親の勧めで、将来の為のたしなみにと、茶道と華道のクラブに所属した。これが嵯峨御流との出逢いだった。

バブルの真っ只中で、周りは合コンやディスコと浮かれていたが、体力もなく、地味な澄世には縁がなかった。欠席が多く、単位はギリギリだったが、近世文学のゼミを専攻し、井原西鶴を研究し書いた卒論「好色五人女考」が認められ、学会誌に掲載される事になり、自分の足跡を残せる事を、澄世は心からうれしく思った。

卒業の頃、父親の事業が傾いた。澄世の父は、大阪・柏原の旧家の長男に生まれ、大きな葡萄畑があり、昔は河内ワインも造っていた地主の家に育ったが、戦後の農地解放で、土地を守るために、旧制中学をあがると、大学進学を断念させられ、農業を継いでいた。

澄世の祖父は、農業のかたわら地元の学校の校長を務め、その後、教育委員を歴任し、その功績から、昭和天皇から勲六等瑞寶章を賜った。その長男である父は、次第に廃る農業をやめ、大手家電メーカーの下請け工場の経営者に転身し、高度経済成長期は羽振りが良かったが、時代とともに衰退し、もう、じり貧だった。

また、この頃、足のくるぶしの関節炎をきっかけに富田外科へかかったところ、澄世の足裏の酷いアトピーを診て、富田先生が「大丈夫、治してあげる」と薬をくれ、その薬を飲んだところ、たちまちに治ってしまった。長らく皮膚科にしかかかっていなかった事を、澄世は後悔しながらも、これで自分も就職して働ける!と心から喜んだ。これがステロイドだった事は、四年後に知った。

家計を助けようと、澄世は大学の就職相談室で、あちこちの会社の求人を目を皿のようにして調べた。給料のいいところをと探した。どこもだいたい月十五万円だった。

電気機器メーカーのS社が目にとまった。「女性のみ採用。ショールームアテンダント業務。月給十八万円。賞与八十万円。」とあった。澄世は、ここへ行きたいと強く思った。

※本記事は、2018年9月刊行の書籍『薔薇のノクターン』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。