そんなことをあてどもなく考えていた自分は
これら二つの視点の関係というのが
何かにひどく似ているような気がして
濃緑の厚ぼったい実を精緻に並べたような杉の葉を見ながら
うつけのようにぼんやりと考えているうちに
ふいにあることに気づいた

そして
自分はなぜこんなことにも気づけなかったのかと
訝しがる心持ちになった

寒村に戻ってからの自分が
周りを見る視点というのが
似たような二つの視点に分かれているのだ

ひとつは樹下で枝葉を見上げた視界のように
対象の内側からのみ見ているような視点
これはいわゆる「主観」のような気もするが少し違う
通常の「主観」よりも感覚的夢想的な要素が強く
自分の内面やそのとき耳にしている音楽を
無理なく解放できる外界という感じ方
内面と外側の世界との境界が透過性のある膜のようになった
いわば「主観的な自己世界」とでも言うべき見方

もうひとつは杉の木を外側から見るような
現在の自分の全体像がより分かりやすくなる視点で
これはいわゆる「客観」のような気もするがこれも少し違う
通常の「客観」よりもさらに意識的理性的な要素が強く
自分の置かれた空間的時間的な位置感は掴めるが
そうした全体にどこか虚構の気配がつきまとう
「客観的な現実世界」とでも言うべき見方

おそらく
寒村で他人の視線が極端に減ったことや
スマホやパソコンに一切触れない生活が
続いているせいなのだろうが
ふたつの視点の違いが
自分の中で
これまでになく
立体的に浮き立ってきているような気がした