アダムの知能指数

創造後の間もない頃、神は「死ぬ」という縁起でもない言葉をもってアダムに一つの不思議な警告を与えました。曰く「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ』」(創世記2:15~17)。

アダムはこの時、「死ぬ」という言葉を初めて耳にしたはずです。しかし地上にはいまだ一つの「死」さえも存在しなかった頃の話です。当然、アダムは見たことも聞いたこともありません。もしも最初の人類であるアダムが「死ぬ」ことの意味をはきちがえてしまい、神が語った「死ぬ」との間に齟齬が生じていたとすれば、アダムに責任を問うことはできません。

アダムは無罪です。アダムの理解力を超える戒めや警告を神が与えたとすれば、それは与える側の過失だからです。さらには、「見よ。それは非常によかった」(創世記1:31)という聖書の言葉まで噓になってしまいます。

つまり、創造主である神が「死ぬ」という言葉で語った「戒め」を、アダムは寸分たがわず理解していたことの印です。完璧に理解できたので、「主よ、死とは何のことですか?」とか、「死ぬとはどういう意味ですか?」などと聞き返す必要もなかったという意味です。

情状酌量の余地は、アダムの側にはありません。創造主なる神は「死ぬ」とはどういう意味かということを説明しなくてもいいほどに、アダムを創造して下さったからです。逆証すれば、アダムは「死ぬ」ことの対極にある「生きる」ことに関しても、その理解は完璧だったということになります。

全能者の言葉を寸分たがわずに理解できたのですから、そういう意味では、最初の人アダムの知能指数は無限大です。アダムに弁解の余地はありません。それに引き換え、現在のホモ・サピエンスはどれほど賢くなったのでしょうか。どれほどに「進化」したと言えるのでしょうか。

人間が抱えるありとあらゆる問題の起源は、言葉の問題です。言葉に関する問題は「定義」を抜きにしては考えられないからです。定義とはある概念の内容をはっきりと固定させることです。ある言葉をこれこれの意味において用いることにしますという、約束事です。定義とは仮定であって証明ではありません。

したがって定義を証明することはできません。さらに定義は言葉によらなければ、定義もできないという悪循環です。人間の本質が言葉に基づくものであれば、アダムの堕落によって最大のダメージを受けたものが言葉というものかもしれません。

人間の言葉の正しさは、循環論と無限連鎖の世界の中で「メタ言語」を生じさせ、自分自身の正当性までも捨てたのです。蛇足ながら、かのクルト・ゲーデルも「不完全性定理」の数学証明文においては一言の言葉も使用できなかったのです。定義や解釈というゆらぎの呪縛から逃れるためです。もはや自助努力くらいのレベルでは、人間は「エデンの園」に帰ることはできません。

パウロ曰く「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(Ⅰコリント1: 17~18)。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。