第四章 目覚めよ​日本​

相似形である歴史認識と聖書解釈

私は十年ほど前から、この問題を意識するようになりました。即ち「誤った歴史認識は聖書解釈さえおかしくする」という法則性です。そうであれば、福音宣教における日本の惨状はやはり伝える側の責任ということになりそうです。

今までもっともらしく語られてきた分析結果 の数々は、全て自分たちの責任逃れの方便ではなかったかと、同床異夢のクリスチャンたちに対して、逆に糺したいのです。

責任を押しつけられたのは蚊帳の外に捨て置かれたままの、自分たちの仲間以外の日本人の方だからです。

例えば、やれ日本人特有の宗教的いい加減さが元凶だとか、タテ社会の人間関係を規定する日本の社会構造が問題だとか、天皇(制)の中に巣喰う悪霊どもの仕業だとか、日の丸・君が代が悪いとか、戦争責任の自覚が足りないとか、日本人は個人というものが未成熟だとか、反論相手が出現しなかったのをいいことに言いたい放題です。

しかし聖書は、断じて言葉足らずではありません。

「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える」(箴言18:17)との警告を軽視すべきではありません。

「日本と日本人」の粗探しを目的とする西洋キリスト教側からの神学的分析によって、いかなる日本宣教論を抽出したところで、何が変わるわけでもありません。

日本がたどった歴史に問題があるという饒舌に至っては、では問題のない歴史はそもそも何処にあるのかと尋ねなければなりません。人類史の全てが問題だらけです。

地に落とされた者どもはこの世の津々浦々を経巡っていたのであり、別段日本だけをねぐらに悪業を重ねてきた わけではありません。打倒日本というプロパガンダに取りつかれ日本バッシングに精進する前に、信仰の父アブラハムを見習えと大言する者たちこそ、真っ先に「日本と日本人」をとりなす側に立つべきです。

「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」の別名こそが、悪魔とかサタンと呼ばれている者であると聖書は教えるからです(マタイ7:1~5、黙示録12:7~12 )。

アブラムがアブラハムと改名の後、自らが身を呈し助命嘆願のために幾度も神にとりなしをした町の名前が「ソドム」と「ゴモラ」ではなかったでしょうか(創世記18:16~33、19:28)。

日本はそれ以下であるとする暗黙知が、カルト化した御用学者や職業宗教家たちの共通理解だとすれば、最早掛ける言葉すら見つかりません。

キリストの「福音」を伝えるつもりで、クリスチャンたる日本人たちが悪魔と同じような所業を熱心にやってきたとすれば、これほどまでにたちの悪い冗談はありません。

まずは自分たちの前提と宣教の「動機」の方を、真っ先に点検すべきです。もしも自分でできないとすれば、 神様に点検してもらえばいいだけの話です(ヨブ13:9)。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。