第四章 目覚めよ​日本​

東京裁判とキリスト裁判

マッカーサー曰く、「太平洋において、我々は日本を包囲したのです。日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが四つの島にひしめいていたのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接したいずれにも劣らぬ優秀なものです。

歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、働き、生産している時の方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでも良いようなものを発見していたのです。これほど、巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。

彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。日本は絹産業以外には、固有の産物は殆ど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない。その他実に多くの原料が欠如している。

そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。従って彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分がセキュリティーの必要に迫られてのことだったのです」(昭和二十六年五月三日、アメリカ上院軍事外交合同委員会での発言)。

かつての将軍様は、日本を擁護する立場に変わっていたのです。しかしこの発言は東京裁判の結審後であり、東条英機首相ら七人が絞首刑になってから三年後の言葉でした。日本を、避けることのできない戦争に追い込んだのがアメリカであるのを知っているが故に、アメリカ政府は賠償金を取らない方針を固め、日本と交戦した全ての連合国に対しても賠償金を放棄させたのです。

パール判事も重ねて曰く、「不正なる東京裁判の害悪は、原子爆弾の被害よりもはなはだしい」。

日本人クリスチャンの頭の中をちょっと点検してみれば、「原子爆弾の被害よりもはなはだしい」ことは明白です。評論家である櫻井よしこさんは「歴史音痴は政治家をやめよ」と発言されたことがありました。ならば私も「歴史音痴は宗教家をやめよ」と叫ばずにはおれません。

政治家の責任は「この世」限りのことです。しかし宗教家のそれは、「永遠」の世界にまで及ぶ責任だからです。東京裁判におけるウエッブ裁判長も、キーナン首席検事も「あの裁判は間違いだった」と五年後には自ら悔い改めました。

仕掛けた本人たちが心底悪かったと謝罪しているにも拘わらず、仕掛けられた日本人の側が「そんなことはありません」と言うのは謙遜などではありません。しかし最も不思議なのは、キリストの「不正な裁判」に関しそれがいかに出鱈目であるかを聖書から理路整然と説教する同じその宗教家たちが、こと「東京裁判」に関しては現在もなお、検事側の証人だという不思議です。

「イエス・キリスト」を裁いた不正な裁判と「日本と日本人」を裁いた東京裁判を比べてみれば、何から何まで全く同じ構図なのは誰の目にも明らかです。断罪のためなら偽証罪に問われることもなく、伝聞や風評、噂話までが有罪のための証拠として採用されたのが「東京裁判」と、「キリスト裁判」だからです(マタイ26:59)。

そんな説教者たちが聖書を云々したり、「キリスト裁判」を説教したりする資格などあるでしょうか。だとすれば、ここにこそ「歴史認識」と「聖書解釈」における共通因子を見つけることができそうです。事後法によっては何人も裁いてはならないと、神はパウロによってこの禁則を既に語っておられたということです(ローマ5:13~14)。

ところが「日本と日本人」に福音を伝えるべく召されたはずの者たちは、二千年前の律法学者よろしく、己が教勢拡大のために「自虐史観」と「事後法」を悪用し、キリストの「福音」をキリスト教という「宗教」に改竄していたのです。預言者エレミヤによって、「あなたがたは、どうするつもりだ」と神が語っておられたのは、このことです。これを信じるとどのような事態が出現するかに関しては、実例を挙げる他ありません。

私は日本という国のよいところは、かなりのところまで自由が許されていることだと思っています。特に言論の自由です。

しかし自由の対価には必ず責任が伴います。何を語ってもいいわけではありません。信仰者はなおのことです。聖書の枠組みから外れて語るのは最早クリスチャンではありません。旧約時代の偽預言者たちの末路を見れば一目瞭然です。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。