目的論的なキリストと生成論的な教師ニコデモ

自然界における全ての事象論考の立脚点として、それが「何の為」であるかと問う立場を目的論といい、それに対して「どのように」して起きるのかと問うものを生成論と呼びます。前者を哲学や宗教と言い換え、後者を自然科学という名の下に相補的バランスにより人間は思索を棲み分けてきました。即ち、whyとhowとの関係です。

目的論はその名の通り、常に目的を問う立場から問題を解明しようとする論法です。思考のベクトルは上昇的な統合です。例えば、内村鑑三の“I for Japan; Japan for the World; The World for Christ; And All for God. ”という言葉がそれです。

これに対し生成論では途中経緯と因果関係のみを問題とするために、目的を説明する必要はありません。思考のベクトルは水平か下向きでありその方法はもっぱら分析です。例えばニコデモです(ヨハネ3:1~12)。

しかし多くの場合は、目的論でも生成論でもある程度は説明可能です。それは扱う範囲や条件が限定されているからです。対して自然界の生態系システムやそれが「命」に関する事柄では、目的論の立場から問い続けようとすれば、創造主を前提としなければ収まりがつきません。命を問題とする時、人間は否応なく神の存在と向き合うことになるからです。

その時の神は、汎神論的な神々では力不足です。聖書に啓示された創造主である神以外には、考えられなくなってしまうからです。したがって「神」が、とは口が裂けても言いたくない無神論者や進化論者には、「学問の完成」も「命の安息」も初めから存在しないのです。神の存在否定を天職とする唯物論者たちが宇宙と自分自身の思索の中で迷子になるのは、当然です。

科学の限界とは知り尽くすことのできない知識であり、また人間の限界が死ぬべき命の中にあるとすれば、人間は創造主の前に悔い改めねばなりません。神を見上げなければ、人間も科学もその存在理由である「目的」を失ってしまうからです。

人間学(anthropology)の原義こそ、「神を見上げる者」です。その神を目的として見上げて生きる時、人間と科学もまた、それぞれの立場と範囲において存在の「意味」を獲得することができるというわけです。人間は何のために生きるのか、何のために存在するのか、どこから来てどこに行こうとしているのかという難問からも、初めて解放されるというわけです。

仮説を立てるための前提は、人間が神に対峙して立てるのではありません。むしろその逆であり、人間は神が由とされる前提を自分に向けて立てなければならないのです。たとい科学というものが宇宙に存在する全ての法則を発見し尽くしたとしても、何故にそのような法則が存在するかについては、一言も答えられないからです。

科学とは方法論であり、人間の目的ではないことを心しなければなりません。科学がどんなに発展しようとも、神によって与えられる言葉の中にしか、その意味は存在しないのです。ノーベル賞の受賞者、物理学者であるリチャード・P・ファインマンも曰く「物体が直進する理由は未知である。慣性の法則が何故に成立しているのか、人間は知ることができないからである」。

目的論と生成論の事例を具体的に挙げるならば、雄のクジャクの美しい羽根模様は「何の為」にあるかを目的論的に問う時、雄は雌の前に羽根を広げ、それを誇示し雌を誘うためであることが観察の結果として知られています。雌はより美しい羽根模様の雄を選ぶからです。つまり雌の気を引くためです。

では「何の為」に気を引きたいのかというと、子孫を残したいからです。では「何の為」に子孫を残したいのでしょうか。可能性がある答えは、「創造主」がそのように創造されたからと言う他ありません(創世記1:22)。

では生態系の自然システムに対峙するものとして、物的に還元される人為的システムを考えれば何が出現するのでしょうか。仮に目の前にコーヒーカップがあったとして、生成論から「どのように」してコーヒーカップがあるかと問えば、「粘土を捏ねて形を作り釉薬をかけ窯で焼いた」と教師のニコデモなら即座に答えたかもしれません。

しかし目的論の立場から同じことを「何の為」にと問われれば、「私」がコーヒーを飲むためです。では「何の為」にコーヒーを飲むのかと問われるなら、多分、「私が飲みたいから飲むのだ! 文句でもあるのか!」ということになりそうです。

最終目的は「人間」のため、即ち「私」のためです。全ては飲みたいということのために、収斂されるのです。人間が神から目をそらす時、全ての目的は「人の為」という理由しかなくなってしまいます。それがヒューマニズムという思想の正体であり、限界です。

しかしこの人道主義という言葉に惑わされてはなりません。イエスが一番弟子のペテロに対し、最も厳しい言葉で「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:21~23)と糾弾したのが、それです。

別言すればヒューマニズムとは神の配剤を無視した人道主義のことであり、究極的動機は自己愛からのものでしかありません。つまりはエゴイズムです。それが神にさえ指図しようするペテロの高慢であり、思い上がりの正体です。

生ける言葉なる神は日本語の中にさえ、「人の為」というヒューマニズムの正体が「偽」であることを、漢字によって証しておられたのです。「偽善」とは「人の為」と言いつつも、結局は「私」のためなのです。

その「私」の原義にしても、穀物である「禾(いね)」を「ひそか」に独り占めしようとする「ム」がその形声文字の由来です。ちなみに「私」には、「ひそか」という訓読みもあるのです。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。