第三章 井の中の蛙井の中も知らず

日本人は神の国から遠いのか

背中合わせの日本とイスラエル

ヘブライズム・キリスト教の中で回心したアンテオケやガラテヤの異邦人たちを福音から切り離そうとする「力」のベクトルは、明らかに「モーセ律法」の方角を示しています。即ち、ユダヤ的慣習へ引きずり込もうとする「引力」としての作用です。

中でも割礼です。しかし割礼と救いとは別次元の話であり、全く関係がありません。これを異邦人にも要求するのは律法主義に絡め取られたユダヤ人と同じ命運をたどること、必定です。

それに反し、ヘレニズム・キリスト教の中で回心した我々日本人の信仰を混乱させようとする同じその「力」が、今度は「日本的なもの」から信仰者を引き離そうとする逆向きの「斥力」として作用していることにも注意せねばなりません。日本人クリスチャンの福音理解を混乱させ、キリストの再臨を阻止しようとする者どもは「日本的なもの」の中に、日本人であるクリスチャンにだけは、絶対に気取られたくない「何」かがあるのを知っているのです。

我々日本人はアンテオケやガラテヤの異邦人と、同列に扱うことができないタイプの異邦人なのかもしれません。律法主義というものがユダヤ的慣習へ引きずり込もうとする「引力」であるとすれば、「日本的なもの」から突き放そうとする「斥力」は、見方を変えれば日本人自身の「日本的なもの」に対する行きすぎた謙遜であり、「日本的なもの」以外の文物に向けられた日本人の憧憬でもあるということです。

和意(やまとごころ)は漢意(からごころ)、「日本の心」とはアンビバレントな、そのような「漢意」だったのです。かつて本居宣長も警鐘を鳴らした和魂漢才の負の遺産であり、「舶来かぶれ」とも称される日本人気質です。それが和魂洋才となり今では無魂無才の体たらくです。日本人の自虐志向は遣唐使の頃とか、明治維新とか、戦後に始まったのではなさそうです。

「ユダヤ人の律法主義」と「日本人の自虐志向」はあざなえる縄のような構造であり、同じ平面上では出会うことのないメビウスの輪のようになっていたのです。日本人とは何かという問題も、また「日本人とユダヤ人」との霊的関係も、この「不思議な輪」を無視しては見ることができません。

ユダヤ人の選民意識がもたらす高慢は文字通りの高慢ですが、日本人の高慢は逆ベクトルの謙遜高慢という位相にあり、問題をより分かり難くしていたのです。その謙遜高慢こそが自虐史観の出自であることは、言うまでもありません。

日本のキリスト教界(会)の言説というものを精査すれば、語らんとするノン・バーバル・メッセージはパウロの福音とは真逆であり、「日本人のようにだけはなるな」と恥もなく教えてきたのです。それすら知らなかったとすれば、それが日本人「の」漢意です。

もしも知っていたと言うのであれば、それは自分たちがキリストの僕ではなく、キリスト教という「宗教」の奴隷であり、確信犯ではなかったかと自らに問うべきです。再度、我々はどのような来歴を有する国民に福音を伝えようとしていたのか、自分たちの動機と信条を教団の信仰箇条によってではなく、神ご自身によって点検されねばなりません。

日本人の国民性が上からの賜物であるとすれば、感謝こそすれ、断じて忌むべきものではないからです。昨今の神学用語で言うところの、「贖いの賜物」なのです。

日本の「悠久の大義」とは先祖たちが信じていた神に立ち返る道であり、日本人への福音宣教とは、失われたその「随神の道」の回復ではなかったでしょうか。己が創造主を忘れ帰る道さえおぼつかない同胞に、いきなり十字架の福音を伝えたところで、皆腰を抜かすだけです。

十字架を語ることは愚かではありません。しかし十字架以外は一切口にしないと誓い、手ずから口にくつわをはめることほど、愚かな自縄自縛はありません。

我々は同胞に対し、キリストの福音を途中から見た映画のような伝え方をしてはなりません。福音は福音書から始まったわけではないからです。我々の先祖こそがキリスト誕生以前の「失われた北のイスラエル」、即ち「イスラエルの家の滅びた羊」だったのです(マタイ10:5~6、15:24、ルカ19:10)。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。