第三章 井の中の蛙井の中も知らず

日本人は神の国から遠いのか

悪魔の聖書解釈

では、「我々は中世ヨーロッパの人間ではない。二一世紀に生きる日本人のクリスチャンである。皆が聖書を持っている。いつでも自由に読めるし、多くの注解書もある。我々は異端者ではない。我々が間違うことはない」と断言することはできるでしょうか。だから、「それがどうした」と言うことはできるでしょうか。

日本聖書刊行会、『新改訳聖書』マタイ福音書21章43節はイエス・キリストが直接述べられた言葉です。曰く「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」。

いのちのことば社、同じ『新改訳聖書 注解・索引・チェーン式引照付』によれば、欄外においてこの箇所だけが、「なぜか」特別扱いなのです。曰く「(神の国は)ユダヤ人から取り去られ、教会に与えられる、の意」である! これが現代の日本における置換神学の実例です。

これは「神のことば」である聖書という書物の中に、敵が紛れ込ませた「悪魔の聖書解釈」です。マタイ伝21章43節の聖句は、33節から42節までに語られた「主人の息子を殺した農夫たち」の譬え話の結語として、記されています。譬え話というものは、何を何に譬えていたのか、そして誰が誰に対して語っていたのかということを間違えると話そのものが支離滅裂になってしまうのです。

主人とは父なる神であり、息子はイエス・キリストです。農夫たちとはユダヤ人のことであり、ここでの農夫が祭司長とパリサイ人であるのは明白です。その場にユダヤ人以外の異邦人がいたなどとは、文脈からも考えられません。

そもそも異邦人とは関係のない話です。時系列で見ても、キリスト教会が誕生するペンテコステの日は先のことですから、「(神の国は)ユダヤ人から取り去られ、教会に与えられる、の意」であると解説されたところで、聞かされる側のユダヤ人とすれば「何のコッチャ?」と言う他はありません。

もしも解説の方を正しいものとして読めば、聖書本文そのものが訳の分からない話になってしまいます。この譬えの中で対立していたのが「イスラエル民族に属するユダヤ人」と「教会に属する異邦人クリスチャン」では、辻褄が合いません。

この譬えは、ユダヤ人の中の不信仰なグループであった祭司長や長老たち即ちユダヤ人の「宗教指導者」と、同じユダヤ人でありながら悔い改めて神の国に入った取税人や遊女といった「被指導者」の人々を対比させた話だからです。明らかに間違っている解釈を堂々と、しかも「わざわざ」その箇所のみを抜き出して注解し聖書の欄外に載せた理由は一体全体何なのか、むしろそっちの方を精査しなければならない問題なのです。

クリスチャンしかいないはずのこのキリスト教系の出版社は、今や悪霊どもの巣窟か、日本支部になってしまったのかという問題だからです。キリスト教系の出版社の刊行物だからといって、無定見に信用してはなりません。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。