第四章 目覚めよ​日本​

日本の戦後教育

日本の戦後教育における大東亜戦争の意義は、勝者側による歴史の改竄と偏向した思想教育によって消滅してしまいました。侵略という一言によって近現代史の全てが解釈されたからです。

その結果、遍く一般の国民までが「暗き影」を宿してしまいました。それが「自虐史観」と称する歴史認識であり、日本人に強要された自画像になってしまったのです。

キリストの福音に出会い新しく生まれた者たちでさえ、いまだその悪夢から抜け出せないでいる有様です。謙虚さを美徳とする国民性の故に、むしろ逆に「それ」を善きことのように勘違いし、行きすぎた自己否定にまで頽落してしまったからです。

クリスチャンたちがそのような思いで同胞を見渡す時、そこに映るのは罪を分かろうとしない、うなじのこわい日本人に見えてしまうのかもしれません。悪霊に憑かれた偶像礼拝の民であると、長年刷り込まれてきた所以です。自虐史観がどのような手順を経て日本人に刷り込まれたのか、その裏側にある霊的思惑を知ることこそ、その「暗き影」を払拭する唯一の方法ではないかと思います。

さらにはその自虐史観が聖書解釈にさえ影響しかねないということも、キリスト者たちは知らねばなりません。安倍首相が掲げる「戦後レジームからの脱却」とは、聖書が語るように神の家である「キリスト教会」から始めなければならないからです(Ⅰペテロ4:17)。

平川祐弘著 新潮新書『日本人に生まれて、まあよかった』にて曰く、「自国についてことあるごとに自慢する人はいささか幼稚で笑止ですが、自国についてことさらに否定的な見方をすることが良心的だと思う人も精神の倒錯でしょう。日本では自分のことを悪く言い、卑下することが美徳とされるようですが、それはえてして相手に媚び、相手に取り入ることの一形式でもあることをお忘れなきように願います」(二六〇頁)。

日本の福音宣教を妨げている自虐史観という病的思想を世の人はどのように見ているのか、そして聖書はどう見るのか、さらには自虐史観に洗脳されるとクリスチャンの聖書解釈はどのように迷走してしまうのかという問題についても、キリスト者は検証する必要がありそうです。

今私の中に響いている聖書の言葉は、「それは、わたしの民のうちに、悪者たちがいるからだ。彼らは、待ち伏せして鳥を取る者のように、わなをしかけて人々を捕らえる。鳥でいっぱいの鳥かごのように、彼らの家は欺きでいっぱいだ。だから、彼らは偉い者となって富む。彼らは、肥えて、つややかになり、悪事に進み、さばきについては、みなしごのためにさばいて幸いを見させず、貧しい者たちの権利を弁護しない。これらに対して、わたしが罰しないだろうか。─の御告げ─このような国に、わたしが復讐しないだろうか。恐怖と、戦慄が、この国のうちにある。預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ」(エレミヤ5:26~31)。

何のことなのか、日本語の理解できる人なら信仰の有無を問わず誰にでも分かる話です。神の民がそれを愛しているようでは伝わるはずの「福音」までが、伝わらないからです。

「どうするつもりだ」という神の問い掛けは、クリスチャンである全ての日本人への問い掛けです。指導者たちこそが、答えねばなりません。私も聞きたいのです、一体どうするつもりなのかと。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。