本当に時間は止まっていたのかもしれない。その間、息をした覚えはないし、自分の心臓の鼓動や、大人たちが話す声、周囲の一切の音が聞こえなかったから。

再び時間を動かしたのは、その女の子だ。

彼女は心底嬉しそうに微笑んだ。

そしておもむろに席を立ったかと思うと、大人たちの怪訝そうな視線を無視して、こちらへと駆けてくる。私は身を隠すこともせず、その様子をじっと見ていた。気づけば女の子が目の前にいた。

女の子は肌が触れ合うんじゃないかと思うくらい顔を近づけて、今まで見せたどの笑顔とも違う、純粋な喜び──感情が空気に染み出てきそうな、満面の笑みを浮かべた。

初めて彼女の口が開き、私はそれを目にする。

「はじめまして!」

女の子の口には普通と違うところがあった。向かって右側に、恐竜みたいに三角な形をした、牙のような歯が一本、つららみたいに生えていた。

それは生まれて初めて見るもの、という前提もあったのだろうが……その獣じみた歯は妖精さんみたいにかわいい女の子に神様が与えた罰……のようなものに思えて、かえって女の子の容姿の神秘性が際立ち、私に大きな衝撃を与えた。

「わたしはしまもとさよこです! おなまえは?」

そのせいで女の子に名前を聞かれても答えられず……そもそも名前を聞かれたのだと認識しているかも怪しい状態だった。……が、しかし、その時の光景は決して忘れない。

【前回の記事を読む】【小説】「ゆかちゃん」ベンチで涼んでいると誰かに名前を呼ばれた