義和団事件(北清事変)

清国の植民地化が進み、生活が破壊された民衆の中に排外運動が広がりました。北京条約でキリスト教の布教が公認されたため、各地でキリスト教徒との間に紛争が続発して、反キリスト教運動が起こりました。

一八九九年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団は、「扶清滅(ふしんめつ)(よう)」(清を(たす)け洋を滅すべし)をスローガンに掲げて外国人を攻撃しつつ、山東省から押し出し、直隷(ちょくれい)省(現在の河北省と北京)へと展開し、外国人、中国人キリスト教信者、舶来物を扱う商店、はては鉄道・電線に至るまで攻撃対象とし、次々と襲っていきました。これが義和団事件でした(北清事変とも言いました)。

欧米列強は中国に軍隊を派遣し義和団掃討作戦を開始しました。一九〇〇年六月一七日、西太后は、ついにこの反乱を支持し、欧米列国に宣戦布告しました。

義和団鎮圧のために軍を派遣した列強はイギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、日本の八ヶ国でした。欧米日列国軍は、総司令官にはイギリス人のアルフレッド・ガスリーが就任し、総勢約二万人弱の混成軍でした。日本軍は最大兵員数、陸軍大臣桂太郎の命の下、第五師団八〇〇〇人を派兵しました。結局、義和団の乱は列国軍によって鎮圧され、西太后に動員された北京周辺の清国の軍隊はほとんど壊滅しました。

こうして、宣戦布告後二ヶ月も経たないうちに欧米日列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧しました。