【前回の記事を読む】「同じ立場から」開国した清国と日本…欧米列強との条約内容に差が出たワケ

第一章 第一次世界大戦までの日米中

《二》欧米列強の仲間入りした日本

比較的順調に船出した日本

それに対し、日本は、清国の失敗をよく観察できたことが幸運でした(このように国際環境の変化を機敏に感じ取り、歴史から学び周辺諸国、世界諸国から学び取ることがいかに重要であるかがわかります。グローバル化した現代ではなおさらです)。

このペリー来航時の開国が平和裡に進んだこと、つまり、幕府の当局者がきわめて順当な対応をしたことは、もっと評価されてもよいと考えられます。出だしにつまずくと、以後、悪循環におわれ、結局、植民地にされてしまうというのが、当時の世界の歴史でした。

日本は、改革・開放、つまり、明治維新に踏み切ると、「創造と摸倣・伝播の法則」(創造されたことが便利であるとわかれば、それが模倣され社会に伝播するという人類社会を進化させた共通の法則。

『自然の叡智人類の叡智』〈巻末参照〉に記しています)通り、日本は他のアジア諸国より徹底してあらゆる方法で先進国から新知識・新技術の導入を積極的に行ったことが短期間で欧米列強に追いついた理由でした(しかし、このため欧米の植民地主義・帝国主義も一緒に取り入れることになりました)。

留学生は、すでに幕末期から薩摩・長州などの下級武士がイギリス、オランダ、アメリカなどへ密航していました。伊藤博文、井上聞多(もんた)、新島襄などでした。

政府の海外使節団も、知識を世界に求め、外国での見聞を有効に使いました。幕府の最初の海外使節の派遣は、一八六〇年、日米修好通商条約の批准書を交換するために、太平洋をわたった遣米使節(咸臨丸)でした。六二年には遣欧使節も出されました。

一八六七年のパリ万国博覧会に将軍の名代として出席した慶喜の弟・徳川昭武の随員として訪欧した渋沢栄一などは、ヨーロッパ各地で先進的な産業・諸制度を広く見聞しました(渋沢は産業・経済人として日本の初期資本主義の諸制度の確立に尽力しました)。

明治になってからの最大の海外使節は、岩倉使節団で、一八七一年一一月に出発し、七三年九月まで、アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国を視察しました。岩倉具視を正使とし、政府のトップや留学生を含む総勢一〇七人で構成されていました。

その成果は『米欧回覧実記』に事細かく記されていますように(きわめて現実的、実務的に)、これには大久保利通など、発足したばかりの明治政府の要人がほとんど参加しており、百聞は一見にしかずの通り、当時の欧米の実態を見聞し、その後の明治政府の方向づけをすることになりました。