第3章 マネジメントから見た司教団の誤り

3.司教団の誤

第6章 教会の愛の使命とアジアにおける奉仕

10.あなたの地域では、教会生活の様々な側面(キリスト教神学、典礼、霊性、典礼美術や建築など)において、どの程度のインカルチュレーションが行われているか、また、教会の使命に対してどのような効果があるかを説明してください。あなたの地域におけるインカルチュレーションに向けた努力が普遍的教会にどのように貢献していますか。

11.教会がアジアにおける愛の宣教と奉仕の使命を果たす上で、教会の社会教説はどのように使われていますか。Human promotion(定訳不明)やHumandevelopment(人間開発)、内戦や民族対立の状況、難民、移民、社会的に無視された人々など。

12.あなたの地域の教会は教会の福音宣教の使命を果たす上で社会的コミュニケーションの手段、特に、出版、ラジオ、テレビ、映画、動画、インターネットなどを使うためにどのようなことをしてきましたか。将来、どのような取り組みを行うべきですか。

13.福音宣教と宗教教育(カテケージス)の手段としての聖母マリアの霊性と献身をどのように説明しますか。聖母は、キリストの弟子の完璧な模範としてどのように見られ、また認識されていますか。聖母の献身がいかにして人々を真のキリストの似姿へと導くか、具体例を挙げてください。

14.教会会議のトピックに関係があって、上記の質問に含まれていないご意見や提案が何かあれば述べてください。

上の質問に対する日本の司教団の回答は、長文なので、ごく一部を引用する。

「『提題解説』の質問には福音宣教がうまくいっているかどうかという問いがあるが、何を基準に問うているのか。洗礼数などで判断するとしたらとても危険なことだ。質問の仕方から、シノドスの開催は、本店が支店を勤務評定するためのものであるかのように感じる。」

ここで司教団が「本店」「支店」という言葉を使っていることが興味深い。司教団文書の中でほとんど唯一、「本音」を感じる場所である。

「洗礼数などで判断するとしたらとても危険なことだ」と司教団は反論するが、「1984基本方針」では、「より多くの人を洗礼に導き」とうたっている。ここでの「多く」は、「数」で数えないのだろうか。

「洗礼数などの数量による評価ではなく、『宣教の使命にどれだけ忠実であったか』という視点からの評価が必要である。」

結果でなく努力で見てくれということだろうが、司教団発信文書からはその「努力」が見受けられない。調べたように、292本の文書の内、書籍2冊の紹介を含む6本のみが「宣教」に触れている。しかも1995年以降は皆無である。

マネジメントとしての問いかけを教皇庁はしていたわけである。ごく常識的な問いだろう。私の検証では、「宣教の使命にどれだけ忠実であったか」という、正にその視点から、努力のあとが見えないのである。

それにしてもこの司教団の「回答」は、例外的に感情的と感じる。むっとした、という雰囲気である。それだけ痛いところを突かれたのかもしれない。

※本記事は、2019年4月刊行の書籍『マネジメントから見た司教団の誤り』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。