第1章 1983年以前

1 まえおき

2018年10月21日、最終稿を書き始める。

本論考は、「目的」と、その目的の実現に向かう「手段」についての検討である。論理は、私が会社経営上の指針としたピーター・F・ドラッカーの『マネジメント』による。

本論考を私は、「司教団が、『福音宣教』を至上の目的としている」という前提で書く。

その前提が見当違いなら、この考察は無意味である。

また、私が知っていることは、司教様方活動のごく一部であるから、論拠とする資料は不十分のはずである。偏った論になると思うが、それはそれで一信徒が感じている現実である。司教様方には是非反論をいただきたい。本論考への反論も司教様方のお役目であろう。無視なさらないことを願う。

(書物は反論を直ちに反映できないので、別途適当な場をWEB上に開設する。場所は巻末で示す。巻末資料01)

本論考の執筆については心理的に高いハードルがある。正直、怯む。しかし、次の教えに基づいて決断する。

[教会憲章・37]

信徒は、すべてのキリスト信者と同様、聖職にある牧者から教会の種々の霊的善、とくに神のことばと秘跡の助けを豊かに受ける権利を有しており、自分の必要と望みを、神の子らとキリストにおける兄弟にふさわしい自由と信頼をもって、牧者に表明すべきである。信徒は、恵まれた知識、才能、卓見に応じて、教会の利害に関することがらについて自分の意見を表明する権利を有し、時にはそうする義務がある。(後略)

上記には「教会がそのために制定した機関を通して」との条件がついている。残念ながら日本のカトリック組織内に、そのような機関があることを知らない。私は今までに個人として、またグループの一員として、司教様方に、少なくない意見を述べ、質問をしてきた。基本的には無視された。少ない回答も、「回答できない」、もしくは「見解の相違」の類いで、実質無回答と同じだった。

「信徒は、恵まれた知識、才能、卓見に応じて」との条件もある。本書がその条件に値するかどうかは、読者のご判断に委ねる(自分では値すると思うから発表するのである)。

私は長く、「司教団はなぜこのような無神経発言をするのか」と思ってきた。私が司教であれば絶対言わないことを、平気で、〝司教の立場〟で発言してきた。

「福音宣教」を第一目的とし、宣教のターゲットが「日本人」であるなら、その条件をふまえた神経を使ってしかるべきだった。神経を使う、の意味は、相手への心遣い、敬意であり、自分へは謙遜、へりくだりの要求である。司教団発言にはそれが欠落していたと思う。

2018年10月20日と21日の2日間、「日本カトリック障害者連絡協議会(カ障連)横浜全国大会」が、聖光学院中学校高等学校講堂を会場に開かれた。すばらしい大会だった。参加して良かった。進行がスムーズで、発言者はさまざまな障害を持つ方々であるが、いわゆる健常者たちでも、これほどしっかりしている大会は珍しい。弛緩した部分がまったくなかった。担当した横浜教区の気合いを感じた。

2日目、締め括りのミサは11時10分より、13人の神父と司式の梅村司教、そして前田万葉枢機卿。豪華だった。障害者の方々も満たされたと思う(私は自分を健常者と思っていないが、ここでは一応そうしておく)。

梅村司教をはじめ多くの司教が手話を使ってミサを捧げた。説教をした枢機卿は、「カ障連顧問司教でありながら手話ができず、……」とおっしゃった。

手話は、私もできないが、耳の不自由な方々への思いやりであると思う。そこに「宣教」があると思う。

前田枢機卿は昨日の「あいさつ」、今日の「説教」の中で、度々、繰り返し、「宣教」「福音宣教」という言葉を使った。司教団も、徐々に変わっていくかもしれない。

同じ10月20日、東京カテドラルでは、「世界の難民と日本人拉致被害者のため」の意向で、グレゴリオ聖歌・ラテン語による『荘厳司教ミサ』が行われた。菊地大司教、チェノットウ大司教(駐日教皇庁大使)、多くの神父様方の共同司式だった。私も参列したかったが、体は一つで、致し方なかった。

「日本人拉致被害者」のためにカトリック教会で公式に祈られるのは、初めてだと思う。日本の司教団は拉致被害者やその家族に対し、ほとんど関心を示さなかった。

ここでも、何か、良い方へ変わるのを感じる。

新潟教会(司教館)の近くに寄居中学校がある。横田めぐみさんはその1年生だった。寄居中学校正門前から日本海へ向かう真っ直ぐな道がある。途中、横田さんご家族がお住まいだった界隈を通り、海岸に出る。めぐみさんはお家のすぐ近くで拉致され、海岸から14北朝鮮へ連れ去られた。菊地大司教は拉致現場のすぐ近くに長年住んでいらっしゃった。散歩の範囲である。思いもお強いと思う。

菊地功大司教は、

『「多様性における一致を掲げて」 宣教司牧指針の方向性について』

の中で次のように述べておられる。

何よりもまず、私たちにとっての最優先事項は福音宣教であります。教会共同体には既存の組織体として様々な課題があり、同時に教会を取り巻く現実は日々変化する対応を求めています。そういった要求や必要への対応に追われるとき、私たちはもっとも優先すべき福音宣教の務めを後回しにしてしまう誘惑に駆られます。しかし、どう考えても、主イエスご自身から与えられた福音宣教命令は最優先事項であり、後回しにすることはできない課題です(巻末資料02)。

私は本書で司教団を批判するが、現在信徒でない方がもしこの本を手にして下さったなら、司教団の多くの政治的言動をカトリック信徒の総意と思わないでいただきたい。そして教会を訪ねてほしい。そこには多くのすばらしい神父様方がいらっしゃり、私がそうであったように、人生が「善い」方向へ向かうはずである。

2 1983年以前

戦後20年、日本のカトリック教徒は急激に増えた。さらにその後20年、増勢は衰えたがそれなりに増えている。このグラフの右端1984年が、司教団の『日本のカトリック教会の基本方針と優先課題』(巻末資料03、以下本書では「1984基本方針」と略記する)が発表された年である。そしてこのあたりを天井として以後停滞に入っていく。これはカトリックのみならず日本のキリスト教界全体が同じ傾向のようである。

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英隆一朗神父は『希望の光』(オリエンス宗教研究所)の中で、次のように記している。

「当時の左派系知識人の凋落ぶりを見るにつけ、私には、カトリック教会の姿と重なってしまうところがあった。」(33ページ)

これは巧みな言い回しである(その巧みさについては解説しない)。

カトリック教会は「1984基本方針」に基づいて、「第1回福音宣教推進全国会議(以下「NICE1」と略称する)」を、1987年11月20日から23 日の4日間、京都の河原町司教座聖堂で開催した。

英隆一朗神父は同じく『希望の光』において、

「カトリック教会が発展したのは、第二次世界大戦後から70年代くらいまでだったであろう。戦後の日本の復興に合わせて、教会は発展した。それへの一つの重大な貢献は間違いなくヨーロッパやアメリカから来た外国人宣教師であった。彼らの信仰心と熱意は、日本人にない特別な魅力を醸し出していた。彼らが語るキリスト教の教えに、日本人として反発も感じつつ、それでもなお抗しがたい魅力があった。彼らの背景にある西洋文化そのものが当時の日本人にとって、大きな魅力だったことも関係しているだろう。キリスト教は西洋文化とセットになって、日本人の心に訴えかけたのである。80年代から停滞期に入っていたように思う。それは正に外国人宣教師が高齢化していく時期と重なっている。」(60ページ)

英隆一朗神父の観察は、内部からのものである故に実感なのだろうと思う。

私自身、アルフレッド・バークという素晴らしいアメリカ人神父を知っている。「心のともしび」のジェームス・ハヤット神父、グレアム・マクドナル神父を知っている。伝記ではあるが、ヒポリト・ルイ・カディヤック神父、ヨゼフ・フロジャク神父を知っている。多くの教育者たちも、残された著作や、実際に教育を受けた方々の言葉で、知っている。

しかし教会の停滞は、これらの方々が健在でも、起こったように思う。停滞の原因は司教であった、というのが私の結論になっている。それは同時にこの停滞を変えることができるのは司教であり、司教にしかできないということである。カトリックはそういう組織である。多くのすばらしい宣教者たちは司教でなかった。身近に接した人には「福音」を伝えた。しかし、それは教会全体の動きにならなかった。それ故、その方々が「高齢化していく」のに合わせ、教会は停滞していった。

私は、本書で停滞の原因を検討する。検討対象資料は「日本カトリック司教協議会 公的発言集(カトペディアʼ92、社会問題に関する公的発言集、カトペディア2004、イヤーブック2008~2018)」である(以下それを「司教団発言」と略称する。「司教団発言」のタイトル一覧は、巻末の表「公的発言集」を参照されたい。「司教団発言」以外からの引用は、都度、出典を詳述する)。

私は1980年4月5日に受洗したのであるが、教会の政治的言動にまったく気づかなかった。受洗した雪ノ下教会も、転居により転籍した山手教会も、そうした動きはなかった。山手教会では今もほとんど感じない。その意味では恵まれた主任司祭のもとに居つづけているわけである。

1984年に「1984基本方針」が発表され、それに基づいて1987年11月に「NICE1」が開催された。私の先輩がメンバーであるカトリック信徒のグループにNICE1参加者がいて、そのグループ内でその報告をした。報告者はNICE1の方針を良きものとして報告したのであるが、評価が割れた。対立が発生し、脱会者が出ることになった。NICE1の早い効果の一つである。NICE1が信徒間の対立を生んだ。

NICE1の方向に危機感を持った人たちが、「横浜アクショングループ」というものを作った(以下「Y-DAG」と称する)。神奈川県在住者が多かったので、集まった場所からそのように名づけられた。そのうちにただ集まって議論ばかりしていても実がないので機関誌を出そう、ということになり(赤羽根惠吉氏の言)、創刊されたのが『ヴァチカンの道』である。1989(平成元)年11月だった。私は第3号(1991年3月御復活号)出版の時、同誌編集長であり山手教会の先輩だった大木吉太郎氏に誘われ、会員になった。

いま「司教団発言集」を見ると、1984年以前のものは1983年7月1日に難民定住問題で内閣総理大臣宛の1通があるのみである。「1984基本方針」以前のものが、資料としてほとんどないのは、何か理由があるのか。もともとないのか。 私が研究者であれば手段を尽くして探究するのだが、私は能力・性格ともにその類いでない。

ただ、どうもこのあたりを境として、日本のカトリック教会は、(そしてプロテスタント、聖公会を含めて日本のキリスト教会は)、急激に「左傾化」したようである。

「左」「右」といって、定義は見当たらない。国の体制によって重心が違うだろう(経済体制を尺度にする考えがある。自由度が高いほど右であり、統制が強いほど左である。日本でいえば左が共産党で右が自民党になる。これが一番感覚に近いかもしれない)。

WEBで検索してもさまざまな考えがある。どれを読んでも一つで完璧と思う論に当たらない。私は日本では、「皇室への考え方」も尺度になると思う。日本共産党は天皇制廃止なので「左翼」である(天皇のいる共産主義国家など考えられない)。国会に議員を送っている政党では日本共産党以外、共和制を方針としている政党はないと思う。その意味で日本に明確な左翼議員はいない。当選してこないのである。

カトリック司教団はどうだろうか。1989(昭和64)年1月7日、昭和天皇崩御のその日に、司教団は「内閣総理大臣」、「神父様、修道院長様」、「カトリック信者の皆さん」、それぞれ宛に、葬儀の有り様について発言している。待ち構えたような素早い反応である。その、「神父様、修道院長様」宛の中に、次の文言がある。

「教会は、現行憲法における天皇制の是非について一つの立場をとりません。」

天皇制の是非について一つの立場をとらない、必ずしも是でない、非もあるということである。これは相当な左である。そして、天皇ご葬儀のあり方について、教会として祈ることはするなと通達した。その司教団発言に、憤慨する信徒が私の周辺にはいっぱいいた。私もその一人である。

「1984基本方針」は現在もなお「基本方針」であると思うが、これを契機に司教団が左旋回した印象を持つ。

私の先輩たちは「1984基本方針」に基づいて開催された1987年の「NICE1」によって教会の左傾化に気づいたようであるから、それまではそうでなかったと考えられる。したがって、それ以前の司教団はどうだったのか、知りたいと思った。しかし前述のとおり、1983年7月の1本(難民定住問題)を例外として、1983年以前の司教団発言は見当たらない。

ところが唯一、簡単に入手できるソースとして、「1984基本方針」で触れられた「過去の10年間、四つの指針が司教団によって出された」、その資料がある(以下、「前10年4文書」という。巻末資料04)。

① 1972年6月 『社会に福音を』

② 1976年1月 『日本における宣教について』

③ 1979年6月 『日本の社会の福音化を目指して』

④ 1982年3月 『洗礼の恵みを一人でも多くの友に伝えよう』

本論考のテーマである「宣教」については、②が特に重要な文献であると思う。

以下、主に②から引用しつつ検討する。文字数の関係で部分引用する。部分引用は引用者の恣意を伴う。読者には全文参照の中で点検していただきたい。

わが国の宣教はここ数年来停滞のきざしを見せており、全面的な再検討の機はすでに熟していた。

と認識している。

宣教は非キリスト者を対象として行われるが、われわれはまず、わが国には膨大な数にのぼる宣教対象者がいるという事実に、いまさらのように驚かされる。すなわち、わが国のキリスト者は100万人に満たず、それは全人口の1パーセントにも達しない。主は初めより、われわれの中に、われわれの間におられ、呼びかけておられるにもかかわらず、全体の99パーセント、実に1億1000万人に近い人々が、福音の知らせをいまだ耳にしていないか、あるいはこれに等しい状態にある。

これ以上の条件のない、恵まれた肥沃な原野である。しかも、

今日の日本教会は、宣教の自由を完全に保障されているという事実に注目しなければならない。

そして、

以上のことから、宣教は、日本教会にとって他の一切に優先して確認されるべき教会のあり方であり、第一、最大の任務であることが理解される。これは教会のもつ宣教使命によってばかりでなく、宣教対象者の膨大な数を考えるとき、当然の帰結である。

自由に刈り取れる肥沃な畑が広がっているということである。

宣教活動は福音を告げる人とこれを聞く人との両者があって成り立つのであるから、人々の協力を得ることが極めて大切である。(中略)。これらの活動は総じて予備宣教と呼ばれているが、宗教への不信や無関心、キリスト教を敬遠する住民感情の根強く残っている所では、特に重要な活動と考えられる。

以上、根本的な認識がなされている。

1.宣教はここ数年来停滞のきざしを見せている

2.わが国には膨大な数にのぼる宣教対象者がいる(人口の99%)。

3.今日の日本教会は、宣教の自由を完全に保障されている。

4.宣教活動は福音を告げる人とこれを聞く人との両者があって成り立つ。

1976年の〝数年来〟というのであるから、70年初頭には既に「停滞のきざし」のあったことが分かる。しかし宣教対象者は膨大であり、しかも宣教の自由は完全に保障されている(可能性はほぼ無限である)。

問題は、宣教には聴いてくれる人がいなければならない。聴いてもらうことが先決ということだ。人の耳を(心を)、塞いでしまってはならない。そっぽを向かれてはならない。当たり前のことを言っている(このことが本論のテーマである)。

「ミサはすべての教会活動の頂点であり源泉であるから、宣教活動もミサに始まってミサに終るのである。」

私は1980年の受洗だが、宣教という言葉をあまり聞いたことがない。この声明を読んで、今、非常に新鮮である。澤田昭夫先生が長く『ヴァチカンの道』誌に、「信仰と典礼の崩壊戦略」を連載され、警鐘を鳴らされたが、ミサの簡略化は明らかに教会の力を削いだのである。

私が初めてヨーロッパの地を踏んだのは1970年代初めと記憶する。パリのノートルダム寺院で、今考えると、復活祭か復活節のミサをしていた。グレゴリオ聖歌で歌われた祈りが、天上(天井)から下りてきた。聖堂の作りの意味がわかった。聖堂はその目的に沿って造られていた。形が先にあるのではなかった。こんなに美しいものに与れるのなら、キリスト教徒になってもいいと思った。それがきっかけだった。

受洗した雪ノ下教会でもその当時、女性の大半がヴェールを被っていた。聖変化では跪いた(当時のミサ式次第『キリストと我等のミサ』は、聖変化の場所で「全会衆ひざまづく」と指示している)。私は外観からの判断で、澤田先生のような精緻な論を展開するべくもないが、美しいものは人を引きつける。高名なカトリック作家が、「ミサが汚れてしまった」と嘆いたそうであるが、そのことによって教会は力を失っていった。自ら棄てた。

「以上のことから、いかにミサと宣教活動とが密接に結び合わされなければならないかが理解される。ミサをそのようなものとして理解し、そのようなものとして執り行うことこそ、宣教のための司牧を行うための第一の要点なのである。」

1976年に出された文書であるが、違和感はまったくない。なぜこの路線をもっと粘り強く、地道に続けなかったのだろうか。

「1984基本方針」は、

このように、過去の10年間、四つの指針が司教団によって出されたが、直接宣教の促進と社会の福音化が2本柱となっている。しかし、これらの指針は、教会全体に浸透せず、従って、約40万のカトリック教会の全員が一体となった協力態勢はまだできあがってないのが現状である。

と記している。つまりこの10年間に出された司教団の「前四つの指針」は効果がなかった。端的には「失敗だった」。

「まだできあがってない」。

その原因は何か、この段階で分析し、対応すべきだった。否定するにせよ修正するにせよ、あるいはそのまま継続するにせよ、「前四つの指針」を点検せずには次へ進めないはずである。しかし「1984基本方針」にその観点はない。

ある目的を立てそれが達成できなかった理由は、突き詰めれば三つである。

1.目的が非現実的だった(目的そのものの誤り)

2.目的は正しかったが「方法」が間違っていた

3.目的も方法も正しかったが「努力」(そしてそれを遂行する能力)が足りなかった。

こうした検討の形跡はまったく見られない。企業マネジメントはそこにこそ、次の成功を生む最大のヒントがあると知っている。検証作業は必須である。それをしない企業・組織は衰退していく。

検証しない主な理由は「責任」(Responsibility)がからむからである。この検証は、立案実行を指揮した者への「責任」が問われる。そして現在の検証者の中に、普通、検証対象の当事者が現存する。それも多くの場合「高い地位」で。

“後輩”は触れられないのだ。

“後輩”にとっても、次の自分の立場である。そのような「形」を定形にしたくない。明日は我が身、になる。

こうして無責任体制が継続する。

自らの責任を引き受け、その検証を自らの「責務」と考える検証者のいる組織が存続していく。残念ながら今の司教団にそういう方は見当たらない……ように見えるが、機を窺っているお人がいるような気がする。

神がその方にその場所を与え給わんことを。

※本記事は、2019年4月刊行の書籍『マネジメントから見た司教団の誤り』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。