第三章 井の中の蛙井の中も知らず

東日本大震災の日本人

それが3・11東日本大震災の時の日本人が取った行動パターンの理由であり、「意味」ではなかったでしょうか。大災害の状況下その意味を神に問わなかったキリスト教会は、日本には一つもなかったはずです。ではどのような「前提」の下に、その時、神の語り部たちは「何」を日本人に語ろうとしたのでしょうか。

暴動が起きることもなく、略奪騒ぎもなく、我先に物を買い漁るような光景はついぞ出現しませんでした。

そこで目にしたのはバス停やコンビニに整然と並ぶ日本人の姿であり、一人暮らしの老人を隣近所が気遣う姿であり、少なくなっていく水や食料を自分はまだ大丈夫だからと言って、より困っている人に先送りしようとする日本人の優しさです。

津波で流れ着いた持ち主不明の金庫さえ、交番に届けずにはおれない日本人の正直さです。ちなみに五千七百個を超える金庫が届けられたそうです。

今回の大惨事を通し世界中の人々は否応なくその証人にされたのです。そうせずにはおれない日本人の「生き方」というものを目の当たりにしたのです。

しかし、それは日本人の一般的国民性でしかなく、誰かに誉められたくて取った集団的パフォーマンスではありません。善悪云々や律法遵守の精神とは別次元の「何」かが、それを日本人に取らせたのです。

では聖書を信じるという方々に改めて尋ねたいのですが、その「何」かとは、一体何でしょうか。

聖書を知る限り、「先祖たちの故に」我々日本人を妬むほどに愛してやまない神からの賜物であるという以外の、どのような解釈が可能でしょうか。

日本人は「石の板」に刻まれたマニュアル書の指示に従い、その善し悪しを気にしながら行動していたわけはありません。

内に聞こえる「かすかな細い声」に全員が素直に反応しただけなのです。

大地震と津波の怒声の中に、主はおられなかったからです(Ⅰ列王記19:1~18)。

しかし悲しいかな、失われた多くの日本人を含めその殆どの人々は聖書に記された神の約束と、「福音」をまともに聞いたことがありません。

それに引き換えこの時とばかりに被災地に赴き、支援物資に紛れ込ませた伝道用のトラクトや教会案内のチラシを配布する者どもの宗教的熱心さとは、これまた何なのでしょうか。

私もクリスチャンです、などとは恥ずかしくて言えたものではありません。彼らの本当の目的が福音伝道という美名の下に見え隠れする、己が教勢拡大にあるくらいの「察し」は、神を知らない同胞たちの方が先に気づいているのです。

クリスチャンになると何故に日本人としての感度が低下し、その品性さえ怪しくなるのは、どういうわけなのでしょう。日本人であるということは、本当はどういう意味なのでしょうか。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。