第三章 井の中の蛙井の中も知らず

譬え話と例え話

さて、「シェイクスピアに夢中になったフランス人がいた。シェイクスピアをより深く理解するためには、イギリスで勉強しなければと思った。そこでイギリスに渡り、衣食住の何から何まで完全なイギリス人のように生活した。彼はついにイギリス人の感覚を身につけフランスに帰ってきた。しかしフランスに着いた途端、一言のフランス語も思い出せないことに気づいた」。

次に、「クリスチャンになった日本人がいた。キリスト教をより深く理解するためには、アメリカで勉強しなければと思った。そこでアメリカに渡り、衣食住の何から何まで完全なアメリカ人のように生活した。彼はついにアメリカ人クリスチャンの感覚を身につけて日本に帰ってきた。しかし日本人の感覚と、「日本の心」が理解できなくなってしまった」とのことです。

フランス人と日本人の違いは、こうです。

フランス人はフランス語を忘れただけですが、自分がフランス人であるということは覚えていました。片や日本人の方は、日本語は覚えていたのですが、日本人であるという自覚は消失し、デラシネのクリスチャンとなっていたのです。

前者は言語学上よく知られた有名な「笑い話」です。おそらくは作り話であり、「本当の話」とは思えません。

後者は、私が幾度となく見聞きした「本当の話」です。

後日談もあります。その後のフランス人は消息不明ですが、日本人の方はやがて牧師になりました。ではアメリカで研鑽を積んだその宗教家はどのような「日本観」の下で、「何」を福音として語っていたのでしょうか。

もしや、キリスト教という世界「宗教」に対する教派固有の神学的解説、道徳や社会問題への言及、慈善の奨励、そういった「福音モドキ」の法話ではなかったかと、糺してみたいのです。

無国籍天国人を礼賛するだけの輩に内村鑑三や新渡戸稲造が見た「幻」など、見えるはずもないからです。彼らの目に映る日本の姿こそが、「無用の長物」だからです。

私は同胞の牧師を揶揄したり、バカにしたりしたいわけではありません。この程度のフランス人でも周囲の失笑を買うことがあるとすれば、日本人は世界の非常識なのか、はたまた「井の中の蛙井の中も知らず」ではないかと思うからです。

このような国民性は私の知りえた牧師や日本人クリスチャンだけに限らず、広く日本人一般に見られる傾向だとすれば、それは日本人の何を物語るのかと、御霊の人たちに考えてもらいたいのです。

聖書を信じ神の油注ぎを自認する者たちが何故に日本人の生き方や価値観まで蔑み、禊をさせたいのかという問題です。

そんな作業をなぜ福音伝道のための「地ならし」と勘違いしたのかということを検証し、彼らが信奉する神学方程式の謬見を精査し、そのメカニズムを解明したいのです。それが唯一、日本人の同胞に対する伝道以前の「露払い」ではないかと思うからです。

フランス人と日本人の本当の違いは、こうではなかったでしょうか。

フランス人はフランス語を忘れただけですが、忘れたという意味、つまり自分がフランス人であるということは決して忘れなかったのです。

片や日本人の方は、自分が日本人であるという意味さえも、苦もなく忘れることができたということです。

創造主を知らない世の学者たちのことはいざ知らず、この違いの真意を、キリスト者である日本人にだけは取り違えてほしくありません。これは日本人にのみ神託された、ある種天賦の才ではないかとも考え得るからです。

その「贖いの賜物」を日本人固有種の宿痾である国民的健忘症と断罪し、日本を放棄するか、逆に日本人にしか真似のできない「無我の境地」や「無私の精神」として解釈し、新たなる世界宣教のための視座が構築可能か否か、その覚醒こそが日本人キリスト者の責務であり、同胞の救いを左右する分水嶺ではないかと思うからです。

「人の子」の神、イエス・キリストが羊を「右」に、山羊を「左」に分けた時の理由を思い出してほしいものです(マタイ25:31~46)。

現に今もなお、日本人だけが善悪の道徳律に縛られることなく、かの日本人牧師と同様、意識と無意識の「表」と「裏」を自由に行き来することのできる唯一の国民であったことを、ある出来事を通して知ったからです。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。