第三章 井の中の蛙井の中も知らず

メビウスの輪である日本人の心

日本人という人々の意識構造を巨視的に概観すれば、意識と無意識の世界がどこかで連続しているというメビウスの輪にも譬えることができます。

その捩れをたどっていけば、神も聖書も知らないはずの日本人の方が、知っているという日本人以上に、キリストの右に分けられた羊のように見えてくるという不思議こそが日本という「物語」の本質であり、この問題の分かり難さなのかもしれません。

伊藤一刀斎や千葉周作が剣の道の極意の中で伝授しようとした不立文字の精神が、まさしく「それ」だからです。

人が語ろうとする言葉は意識の現れです。その言葉で無意識の世界の極意を伝えようとすれば、あのような神がかり的な説明になってしまいます。極意とは文書化できるようなものではありません。

文字にならないからこそ極意なのであり、箇条書きにできるくらいならそれはただの信条です。何遍唱和しようと何が起きるわけでもありません。

極意は体験し体得し身につけてもらい、習慣化されねばなりません。本当に習慣となった時に、初めてそれを忘れることが許されるのです。

それが免許皆伝だとすれば、覚えているうちは極意を習得していなかったのかもしれません。

千葉周作の譬え話も人間は万能コピー機のような生き物ではない、またそうであってはならないということを、門弟たちに悟ってほしかったのではないでしょうか。

では往古(いにしえ)の日本人は何を悟っていたのかというのが、次なる問題です。

記憶にないほど自家薬籠中の物にしたとはいえ、歴史の中に先祖が歩んできたその後ろ姿でも垣間見ることができるなら、あるいは思い出すこともあるかもしれません。

それは日本人の「生き方」の中に具現化されたしきたりや作法、所作であり、いわゆる「日本人らしさ」のことです。それが「意識」と「無意識」の世界、即ち「表」と「裏」を自由に行き来することができるメビウスの輪が招来させた無自覚的日本人の「ことば」や「行動」だったのです。

「察し」と「悟り」を要諦とする思いやりが和意(やまとごころ)であるとすれば、それは善悪という尺度では決して計れない位相にある、日本的美意識です。

強いて言えば「親や兄弟を大事にし」、「年配者を敬い」、「恩を忘れず」、「礼節を心がけ」、「和を尊び」、「困っている者を助け」、「旅人をもてなし」、「努力し」、どうにもならない時には「潔く諦める」という日本人の生き方です。

そのようなものを禁ずる律法は、聖書にもありません。

ですから、いまだ「この道」に達していない者を日本人は半人前と見做し、恥知らずと呼ぶのです。別段「恥の文化」などとよそ様に喧伝されたとて、真に受ける必要などありません。

恥を知らない文化こそが恥知らずなのです。

そのような意味で、3・11における日本人の後ろ姿こそ「日本の心」であり、善悪に左右されず、善悪を超えたところにおられる神が唯一「日本と日本人」に与え給うた特別の賜物であると、悟るべきではなかったでしょうか。

日本人は「善きこと」のためにしたのではなく、「悪しきこと」の故にしなかったわけではありません。

誉められたからといって誇るものではないことを知るが故に、誰一人として気にもとめなかったのです。

誤解覚悟で再度敷衍すれば、共同体としての「ヨコ軸」と歴史を共有する「タテ軸」との交点から語られる「福音」だけが、日本人への聖書的十字架の福音ではなかったかということです(出エジプト32:30~32、ローマ9:1~5)。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。