婆須槃頭からの手紙

こうして涯鷗州監督の右腕的な存在を経て、私は『マルト神群』の構想を涯監督に話しシナリオを共同製作し、映画創造の決心をさせたのです。涯監督は主人公には私しか考えられないと言って、抜擢をしてくれました。宮市蓮台嬢はそれ以後も私の崇拝の対象として存在し続けています。

私は次のように考える男となっていました。地上のすべての男は、すべからくイタリア フェデリコ・フェリーニ監督の映画『道』に出てくるザンパノなのです。ジェルソミーナの死を知り、夜の波際の砂の上で一人号泣するあのザンパノなのです。女性から生まれたくせに、女性をいたぶるどうしようもない男ども。彼らすべて懺悔(ざんげ)して魂から女性に詫びるべきでしょう。

映画『マルト神群』は、P社のハマーシュタインやその他、アメリカやインド映画の俊才たちを巻き込み始動を開始し、そこへあなた方日本のマスコミに嗅ぎ付けられた、というわけです。

笹野さん。これで私の素性を明かし終えました。私があなたに言いたかったことは、仏教で説く女性成道の現実の難しさです。宮市嬢は映画俳優としてだけでなく仏教徒としても立派なお方です。しかし、少女の時代に負ったトラウマは容易に消え去ることはないでしょう。でも、私は彼女を庇護し続けていきます。そして、私は女性を崇め崇拝する。なんとなれば女性はすべての生命をこの世に生み出してくれた源だからです。

私の曾祖母の母は、若くして夫を病気で失い、それから女手一つで炭坑で働きながら曾祖母を含む三人の子を立派に育て上げました。このこと一つをとってもあたら女性を粗末にするべきではありません。あの舞台劇の稽古中生じた奇跡は、私を何か途方もない昔に帰らせました。仏陀も真近に見ましたし彼の言葉も聞いた。インドの神々さえも見ました。

とにかくインドに関する事象はすべて自家(じか)(やく)籠中(ろうちゅう)の物とすることができました。それ以後の私は、何か得体のしれない任務を受けもたらされたかのように思えてなりません。私は正直私自身がこわくなることがあります。しかし、これも宿命でしょう。

笹野さんに会って私の気持ちは少し変わりました。いずれ日本であなたにお話しすることも多々あるはずです。その時が来ることを念じつつ、これで私の手紙を終わらせていただきます。ごきげんよう。

婆須槃頭  拝