「幼稚な句ですね」と言われるのは十分覚悟して、思い浮かんだままに作ってみた句だったが、なんとこれが句会で取られたのだ。結構苦労して作った他の四句はだめだったのに。何かの間違いではないかと思った。柏餅の葉を見て感じたままになんとなくつぶやいた一句。

七十年の人生経験も、学校で学んだ学問も、社会人の世知も、向こうに置いといて作った、全く無心の句だった。三尺の童の意味を考えさせられた、俳句一年生の思い出の句である。

このように、自分の句の質に自ら信がおけず、第三者の評価を待たねばならないという俳句の特性は、まことに歯がゆい事態である。しかも、俳句の場合、審判は一人でない。複数の審判がいることが多い。

例えば、新聞、俳句誌の場合の審判は選者たち、句会では自分を除く他の参加者全員である。俳句の複数の審判が、全員一致で同じ評価をすることはまずありえない。審判である読み手自身が、俳句の実作者でもあるから、各自の俳句観をもっており、それに基づき句の良し悪しを決めるので、選句が割れるのは当然である。