箱根の宿 二日目午前

このように、俳句の評価は、相対的で一つに収束することがないために、俳句には唯一の正解となるものがない。

学校のテストならば、正解すれば点数を得られるから、正解を素早く答える練習をすればよいが、俳句には唯一の絶対的な正解という、目指すべきはっきりとしたものがないのである。

これはおそらく次の三つの理由に因るのだろう。まず、俳句は、読み手の個性によって評価されるので、端的にいえば読み手の数だけ正解があるということになる。次に、俳句は原則十七音だが、使用される言葉の組み合わせの数が膨大なので、その中から正解を見つけるのが困難であること。さらに、詠む対象も森羅万象なので、作られる句の範囲も広大であることも理由となろう。スーパーコンピューターをもってしても、正解は見いだせないだろう。

このように俳句に絶対的な正解がないということは、俳句の習熟に大きな困難をもたらす。

受験生ならば、正解を得る方法を教えてくれる塾に通えばよい。私が過去に在籍した学校や会社では、正解またはそれに準ずる解が日常的に存在し、過去問題集や先人の残した事例を使って、問題を解き、対応策を練ることが十分できた。だが俳句には、そうした手が通じないのだ。

私たちは、自分の知識や経験が少ない分野に取り組まねばならない時、その道の専門家の意見を参考にする。批評家、評論家と呼ばれる人たちの意見に耳を傾ける。

映画、音楽、絵画、小説などにはそのような人がいて、作品の良し悪しについて意見を述べ、私たちはそれを参考にして、作品を見に行ったり買ったりする。しかし残念ながら、その類の人が俳句の世界には存在しない。俳句評論家、俳句批評家はいないのだ。有名な俳人が、句の鑑賞をすることがあるが、それが作品の絶対的評価とはならず、一俳人の個人的な見解としてしか取られない。