10月17日(土)

文七元結

私には、何度観ても泣ける芝居が2本あって、それは、『一本刀土俵入』と、『文七元結』である。

今日は歌舞伎座で『文七元結』を観た。左官長兵衛を菊五郎、時蔵の女房お兼、角海老手代藤助 團蔵、角海老女房お駒 玉三郎。文七を梅枝、お久を右近が演じた。

素晴らしい舞台であったと思う。

右近のお久が可憐であった。

ただ結末の、角海老から身請けされ振り袖姿で戻ってくる場面は、着物の華麗さは良いのであるが、顔の塗りは抑えた方がよかったように思う。一晩しか経っていないのである。

歌舞伎がリアリズムでないのは承知しているが。

この二つの芝居でいつも連想するのは、聖書・ルカ伝の「よきサマリア人」の話である。「隣人とは何か」という問いかけである。

今日は実は、不愉快な出来事があった。

その件であい子は私を非難する。私は反論しない。ただメモに記しておく(この「メモ」は、子供たちへの遺言として記している。私が頓死せぬ限り、いつかの時点で、この文章を子供らに教えるつもりである)。

今日歌舞伎座の昼の部の演目は、

『音羽嶽だんまり』

『矢の根』

『一條大蔵譚』

そして、

『文七元結』

であった。

私の席は中央下手側の2列目、その右斜め前、つまり私の右隣あい子の前に、その人物はいた。最前列ということになる。

冒頭の『音羽嶽だんまり』が始まり、松也、萬太郎、児太郎、三人が花道から中央へ登場し、華麗に踊る。若いと言うことはすべてに勝る花である。美しい。

ところが右前のその人物は舞台を見ず、筋書のページをめくっている。私自身は開演中に筋書を開けることはしないが、時折、役者の確認であろう、開ける人がいる。それを一々は気にしない。しかし今回は度を超ていた。

文字を読むのではない。読んでいるのであればそのスピードでページをめくらない。ただ単にページを右から左へ、左から右へ、めくり続けているのである。

前を見ると、その男の左隣、つまり私の正面の人は、それが目に入らぬようにするためか、手の平を、馬の遮眼革のように顔に当てている。

舞台は若手三人が懸命に踊っている。

私はついに後ろから、その男の左肩に指を触れた。振り返った男に、私は本を閉じるように手で示した。

最前列ほぼ正面なのである。役者の目に入っているだろう。自分たちの演技への無視である。

幕間にその男は振り返り、私に文句を言った。

「だんまり(第2場)が始まれば見ようと思っていた。それまではつまらないから見なかった」

と彼は言った。ということは一場中、彼はその動作を続けるつもりでいたことになる。

「見たくなければ目をつむっていればいいじゃないか」

「私の勝手だ。自分の価値観を人に押しつけるな」

「価値観の問題でなく、エチケットの問題だろう」

小さな声での会話だったので、幕間のざわめきの中、周囲の誰も気付かなかったであろう。あい子は、「あとで父に言い聞かせますから」というような言葉で私に非があるとし、おさめようとした。

あい子に反論すれば数倍する反撃が予測できるので、大塚家具を劇場で演じたくなく、私は黙った。しかしあい子の位置は男の真うしろで、私が問題とする動作は見えていないのである。

歌舞伎座は勿論、どこの劇場・コンサートホールでも、ビニール袋が立てる音にまで注意する。プログラムをめくる動作には、音に加えて視覚的迷惑影響がある。私の場合は芝居でもコンサートでも、開演中はすべてを足下に置き、膝上には何も乗せない。

一昨年(2013年)の2月に東京文化会館で、三枝成彰作曲のオペラ「KAMIKAZE──神風──」があった。

私の左にいた中年女性は開始直前まで携帯メール操作をし、慌てて切ろうとしたが開始の弦の最弱音は鳴り始めた。携帯のライトが目の前で動いた。私は息を詰めて、出だしを聴きたいのである。作曲者も命を込めて、その音を発見したと思う。残念であった。

作者も演者もスタッフも、一瞬一瞬、精魂込めてやっていると思う。私たちもそのように仕事をしている。

観客は楽しみで行くのであるが、周囲に対する配慮は勿論、提供者に対しても感謝と敬意を持ちたいと思う。

※本記事は、2019年3月刊行の書籍『良子という女』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。