第2章

おんなは枕の端にのせた頭を左にかしげ静かな寝息をたてていた。薄目をあけているような、いないような、俗世の偏見や美醜を超越した仏像のような寝顔だった。大きくはだけた浴衣の胸元からは、こころもち外に垂れた左の乳房がのぞいていた。

田島中尉は、目覚めたとたんに哀しい現実と向き合わなければならないおんなの、せめてもの夢路を破らないよう、そっと床を抜け出し、捲れあがっている薄い掛け布団をかけてやった。誘われるままに神楽坂の待(まちあい)合《松ヶ枝》に上がり、盃を重ね、勧められるままに相方(あいかた)をとって一夜を共にした。

ほぼ一年ぶりに触れた柔肌だったが、彼にとっては妻にするなら山内良子(よしこ)以外にはないと心に決めた時、一人密かに立てた禁欲の誓いを破り棄てるための虚しい儀式だった。

が、しかし……。

「なんだかおざなりというか、心ここにあらずといった素っ気ない感じね。

だれかいい人でも思いだして気兼ねしていたの? それとも、あたしのような田舎育ちの女は中尉さんの好みじゃなかったかしら?」

と、おんなは乱れた髪を搔きあげながら悪戯(いたずら)っぽく笑った。が、双眸(そうぼう)の哀しげな恨みがましい色は隠しようもなかった。

昨夜、田島は歩一の営門を出るとき、山内大尉に良子と会うことを躊躇(ためら)いながらも約束したことが頭からはなれず、他を顧(かえり)みる余裕(ゆとり)のなさから、哀しい宿命を背負ってこの世に生まれ、忍びがたきを忍んで生きているおんなを心ならずも二重に辱しめ、キズつけたのではないかと慌(あわ)てて手をふり、思いつくままに弁解した。

「あ、いやいや、そういうわけじゃないんだ。以前私のいた連隊のある新兵が、妹が花街(はなまち)に身を沈めてしまったと、兵舎の裏で泣いていたことをフト思い出してしまってね。きみにもきっと、そんな兄貴やご両親がいるにちがいないと、ついそんなことを、いや、それも余計なお世話かもしれないがね」

「やだわ。そんな、戦闘中にそんなこと思い出すなんて、でも、たとえ嘘でも、そんなこといわれると、あたし……」

と、おんなは突然声を詰まらせた。

「あ、すまない……それはその、刻下(こっか)の日本は、いや今の日本はそんな悲惨な、ひどい情況だということをいいたかっただけで、いやいや、私があさはかだった。心ないことをいって、きみに悲しいことを思い出させてしまって本当にすまない」

と、田島はさらに慌てた。

が、おんなは気をとりなおしたように首をふってニッコリ笑った。

「うウん、いいの。あたしにはお兄ちゃんはいないけど、おかげで、忘れかけていた母ちゃんや弟や妹たちの顔を思い出しちゃった。そしたら、急に胸がキュンと熱くなっちゃって、なんてね。でも、田島さんて見かけによらず、ほんとに優しいのね」

「見かけによらず?」

「あら、あたし一言多かったかしら?

でもそこが田島さんのいいところ。あたし、田島さんのこと本当のお兄ちゃんだと思って一生忘れないように、この二の腕に田島さんの名前を彫り込んでおくから、下の名前のほうも教えてくれる? あ、いえ、ただの冗談。

でも本当のこというと、いつかあたしにもそんないい男ができたらいいなと思っていたんだけど、そういうのを、いま流行のエロ・グロ・ナンセンスっていうのかしら。それより、も一度抱いて。ね、いいでしょう……お願い」

と、おんなは飛びつくように田島の胸に乳房を押し付け、身をくねらせた。田島もその唇を吸い、体を抱きしめ、我を忘れた。

※本記事は、2019年4月刊行の書籍『泣いてチャップリン』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。