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初夏

それからひと月ほどたったある日、小幡家では、相変わらず賑やかな夕餉(ゆうげ)の膳を囲んでいた。聡順の意向で、この家ではできるだけ男も女も一緒に食事の膳を囲む。聡順に深雪、三人の子供たち、それに内弟子三人。それだけでも大所帯である。ただし、今日は年長の内弟子加藤稔は所用あって実家に戻っていた。(まかない)は女中のうめ、佐枝、とよ、下男の勝太、良吉。それに今日は権爺までいる。良い魚が入ったからと、深雪が夕餉に誘ったものだ。

その中で、聡順は改めて末娘の百合に意識を集中させていた。妻の思いがけない言葉を聞いて以来、それを重い宿題として心に留め置き、ずっと陰ながら百合を観察していたのだ。

当人の百合は全く屈託なく、幸せいっぱいの様子で権爺にまとわりつき、昔の『奥山(おくやま)(まわ)り』の話なぞせがんでいる。百合の一番のお気に入りの、聡順が熊に襲われそうになった時の話で、鉄砲も間に合わなかったため、権爺が杖一本で巨大な熊を撃退したという武勇伝の佳境に入りかけたところであった。

富山藩は越中にある十万石の小藩である。関ヶ原の戦いの後、加賀一帯(加賀、能登、越中)を掌握(しょうあく)した前田家の第三代藩主(とし)(つね)が、一六三九年その次男利次に富山十万石を、三男利治に大聖寺(だいしょうじ)七万石を分封(ぶんぽう)することを幕府に願い出て許されたのが始まりである。領地は加賀藩の中の越中国のど真ん中に位置し、東も西もその藩境が加賀藩と接している、まさに加賀藩を真二つにしている半島のような存在であった。

その本家本元の加賀藩は、分封するまで石高一二〇万石の最大級の外様藩で、幕府が分封を許した背景には、その強大さを恐れるが故の配慮があったに違いない。