第二章 破 絶歌

有神進化論という子供騙しのトリック

それにも拘わらず聖書を信じると宣うクリスチャンたちまでが、これならどうかとばかりに次々と新たな修正案を腐心するではありませんか。その代表格が有神進化論とも呼ばれる姑息な折衷策です。

創造主は生物進化という方法によって人間を地上に送り出したとする浅知恵です。明らかにこの世と調子を合わせた曲学阿世の発想であり、科学と宗教の短絡的妥協案です。

このような子供騙しの作り話は、科学も宗教も神も聖書も、「福音」の何たるかも知らない輩の発明品でしかありません。そもそも何故に福音というものが人間に必要なのかということを、失念してしまったかのようです。キリストの十字架の福音は、人間の罪と、罪からくる報酬の「死」に対する唯一の解決だからです。

聖書が明示する死に関する起源とその理由は、人間の罪です。その結果がこの地上に死をもたらしたと聖書は断言します。これ以外の死に関する説明は聖書のどこにもありません。曰く「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、─それというのも全人類が罪を犯したからです」(ローマ5:12)。

ところで進化論という仮説の中には二次的な仮説が入れ子のサブ・カルチャーの如く様々に仕組まれていたのです。例えば弱肉強食、自然淘汰、突然変異、適者生存、等々。即ち不適者必滅という「死」の大前提がなければどのようなタイプの進化論であれ、到底説明のつかないのが進化論です。その思想とは功利主義というイデオロギーです。

全ての進化論は肉的な「死」に始まり「霊的な死」をもって完結する、「死」の哲学だからです。しかし聖書に記されたキリストの福音は、「命」から「永遠の命」へです(ヨハネ3:16)。

「聖書を信じます」と言いつつ進化論も信じている二心のクリスチャンたちは、では何故に生物進化の頂点に立つはずの人間が上に向かって堕落していくのか、これを神学的に説明しなければなりません。ある生物が万物の霊長たる人間にまで進化するためには、一体どれほどの「水漬く屍」や「草むす屍」の死屍を要したのかという難問です。

進化論とは「初めに死ありき」を想定しなければ、そもそも成立しません。死の由来は聖書が語る「罪」を前提とすれば、子供に対しても説明は簡単です。信じるか否かは別の問題です。

しかし死を前提とする進化論の立場からすれば、逆に罪(sin)とはそもそも何のことなのか説明すらつきません。聖書曰く「罪とは律法に逆らうことなのです」(Ⅰヨハネ3:4)。罪は只の犯罪(crime)とは次元が違うのです。

有神進化論とは、神の創造を今風に伝えるために、日本人好みの「進化」という言辞をつけ足しただけの発想ではありません。それは創造主である神をその御座から引きずり下ろすための方便であり、創造と進化という相反するものを唯物弁証法的にでっち上げただけの作り話です。

有神進化論とは二重の意味での噓ということになりそうです。そういうわけですから、「愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい」(ヤコブ1:16)。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。