第二章 破 絶歌


キリストの福音vs進化論の思想

進化論の本当の目的が那辺にあるのか詮索してみれば、対立概念である創造論の逆ベクトルであろうことは議論するまでもありません。創造論の信仰者が目指すところは創造主である神がおられる天国です。

その創造主は「人の子」として女の子孫から生まれた、御子なるキリストです。創造主である神は被造物である人間の女を通して一度この世にこられたと、にべもなく聖書は語ります。

何のために創造主が被造物の世界に身をかがめてこられたのかということが、最大の問題です。実際どうなっているのかという社会見学や体験旅行が目的ではありません。

「人の子」となったキリストは人間が犯した罪の清算のために、十字架の上に屠られるべく、この世界に介入されてこられたのです。創造主である神が被造物にすぎない人間によって殺される、その目的のために地上にこられたのです。

人類史の只中に出現した一回限りの超常識が「福音」であり、at-one-ment そのatonement (贖い)の十字架に架けられたキリストの死による「罪滅ぼし」が「福音」なのです。キリストは人間の尻拭いのそのために、この世界にきて下さったのです。死ぬために、です。それが父なる神の大御心だったからです。

人間が犯した原罪というものは、それほどまでに途方もなく破壊的なものであると聖書は語ります。神の命を代価としなければ、人間は永遠の滅びを免れ得ないというのが聖書の主張です。

悪に誘惑されることのない神の義は、人間の罪を見て見ぬふりをすることができません。罪は罪として処罰しなければなりません。神はご自身を否むこともできません。

だからこそ、人間が担い切れない罪の処罰を一人子の神、イエスに肩代わりさせて下さったのです。不可能のない神にとっても、これしか方法はなかったのです。「なぜなら神は愛だからです」(Ⅰヨハネ4:8)。アーメン!

しかし神なき人間稼業を先祖代々生きてきた現世志向の日本人が「これ」を予告なしに聞かされるなら、どういうことになるのでしょう。事実だからといって俄に信じられるような話ではありません。彼らはこの世の常識人です。

福音は決して非常識な話ではありませんが、超常識であり、進化論と同様に普通の話ではありません。かつて人の心に思い浮かんだことのない話をキリスト教の神学や説教学、折伏によって日本人が納得するわけがありません。啓示の御霊が諭しを与えない限り、人間が受け入れられるような話ではないからです。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(箴言14:12)。

もしも聖書がインチキ宗教の経典であれば、誰もが入信できそうな教義を設定し、もう少し閾値を下げるのではないでしょうか。自力では到底信じられない「福音」を神が人間に示す理由は、どこにあるのでしょうか。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。