奉公

伊助の年季奉公が終わろうとしていた。

【人気記事】JALの機内で“ありがとう”という日本人はまずいない

振り返ると、ここでの生活は伊助にとってためになることも多くあった。名主という家柄のためか、やたらと客が多く、代官所の役人や武家の用人、商人やら僧侶などが滞在して御政道のことや米の取引、地方や異国の話題など興味深い話を耳にすることができた。

また、百姓の訴状の取り扱い、もめ事や水争いの仲裁、代官所への願いなど、いろんな場面を見聞きできたことで世の中の仕組みを知り、見聞を広げることもできた。若い伊助にとっては刺激的な日常でもあった。

さらに、九右衛門の命によって助郷の要請に馬方のところへ行ったときには、御上への不満を一身に受け、肩をぶつけられたり、馬に体当たりを食らわされたりもした。御上と名主、百姓のつながりかたもいろいろわかった。

書物も多く目にすることができた。文庫蔵の中には往来物や軍記物などの読み物がたくさんあって棚に積まれていた。農業書などもあった。

伊助はこっそりと持ち出しては夕暮れになると竃や風呂釜炊きの前で、おさきや吾作に難しい字を教えてもらって読みふけることもできた。伊助にとって充実した十年でもあった。

九右衛門に呼ばれた。九右衛門は書院で文机に向かっていた。伊助を優しい眼差しで見ると、

「伊助、十年の間よく耐えたな。晴れて年季開けだ。借金は全てなくなった。後は自由の身だ。だがな、お父っつぁんを恨んじゃいけない。辛いのは親も一緒だ。わかってやれ、おまえを突き放して奉公に出した胸の内をな……」

九右衛門の一言に、忘れていた十年前家を去ったときの情景が思い起こされた。

「おまえはこの十年、身をもって農作業や山管理、いろんなことを経験したはずだ。これからのおまえに必ず役に立つはずだ。この十年を無駄にしたと思うな。帰ったら家を興せ。己を興せ、いいな。これは年季奉公の約定書だ。返しておこう。

それからこれは藤左衛門殿への書状だ。渡してくれ。それからな、おまえは書物が好きらしいから文書蔵から欲しい読み物があったら持って行くがいい。お父っつぁんやおっ母さんによろしく伝えてくれ。長い間ご苦労だった」