往古

享保七(一七二二)年七月二六日、八代将軍吉宗(よしむね)は幕府の財政赤字再建のため日本橋の南詰に新田開発奨励の高札を掲げた。

高札には「諸国御料又は私領が入り組む場所であっても新田開発できる場所があれば代官・地頭・百姓が話し合って詳細を絵図面に書付けて五畿内・西国・中国筋は京都町奉行所へ、北国筋・関八州は江戸町奉行所に願い出ること」等々記されていた。

当時、新田開発を願い出る手立てとして町人、村、百姓個人による願い出などがあったが、実際は潤沢な資金を持つ豪商や豪農によるものの他は、御上が半強制的に各村へ開発割り当てをすることが多かった。

武州多摩郡武蔵野(ぶしゅうたまぐんむさしの)の地(現在の東京西部地域から埼玉南部地域)は広大な原野であった。

江戸の大都市化とともに野菜などの栽培地としての展望が開けるようになったため開発の対象地となり、新田開発奨励の高札が出た翌年、江戸町奉行所から入会地を周辺の各村へ分割するというお触れが回った。

各村は仕方なく割り当てられた武蔵野原野の開拓をはじめざるを得なかった。

東京都国分寺(こくぶんじ)市内、JR中央線沿いに内藤町(ないとうちょう)という町名がある。武蔵野新田開発の一つである内藤新田の名残である。

内藤新田は、この内藤町及び周辺一帯の広さ四十九町八反七畝と多摩川(たまがわ)の河原にある飛地三町三反八畝、合わせて五十三町二反五畝の開発地である。

この新田は、享保九(一七二四)年五月、武州多摩郡本宿村(たまぐんほんしゅくむら)(甲州街道・府中宿の西端に位置し、宿最大の助郷村として大きな集落を構えていた。村域は現在の府中市本宿町を中心に南北に隣接する七町に及んだ)の有力者である内藤某が主体となり開発がはじめられたと記録されている。