この時、赤穂浅野家とは隣藩の播州竜野城主脇坂淡路守安照が、松之廊下を二人の旗本に抱えられながら逃げ去る吉良の姿を目撃し、その時の様子を「大紋の血に染まったは珍しや」と証言していることが諸書に見られるが、この証言がのちの映画やドラマでは騒動を聞きつけて松之廊下にやってきた脇坂が逃げ惑う吉良とすれ違う際に、脇坂の礼服に触れてしまい、脇坂が大紋を血で汚されたと怒り心頭に吉良を罵る場面へと繋がっている。

それでは、殿中での刃傷事件を内匠頭の家臣らは一体どのように受け止め認識していたのかを確認しておく。四十七士の中では早くから主君の仇討ちに前のめりで、急進派の急先鋒として知られる堀部安兵衛の義父堀部弥兵衛金丸(あきざね)が事件の顛末を記した『堀部金丸覚書』によると、

去年三月十四日 於御殿中ニ内匠頭不調法仕候付、早速御大法之御仕置ニ被為仰付候段、乍恐御尤至極ニ奉存候、於傳奏御屋敷吉良上野介殿品々悪口共御座候へ共、御役儀大切ニ存、内匠頭堪忍仕候處、於御殿中諸人之前ニ武士道不立様ニ至極被致し悪口候由、依之其場を遯候而者後々迄之恥辱と存、為仕与存候、然者先より為仕懸手向ニ而候、悪口者殺害同前之御制禁与及承候處、上野介殿を其儘被立置候、とある。

この覚書は金丸の甥である堀部甚之丞友政家に代々伝わるもので、その内容から内匠頭は役儀を大事とし、伝奏屋敷から続く吉良の悪口に耐えていたが、殿中においてしかも人前での悪口を見過ごしては武士道が立たなくなるとの思いから刃傷に至ったと記している。

これらの一級史料に共通しているのは、吉良が内匠頭に対して何度となく言い放った悪口の事実であり、それが日々積もり積もったなかで、殿中松之廊下において吉良が同僚である高家衆に向かって、内匠頭に聞こえよがしに発した悪口が引き金となり、それに呼応して内匠頭は吉良に刃傷に及んだものと認識されている。

当時武士に対する悪口は固く禁じられており『堀部金丸覚書』にも人の面子を潰すその行為は殺害されるに等しいとあり、当時の武士の日常的な感覚を象徴したものと言える。当時の武士と現代人との道徳的感覚のズレは極めて大きいが、平和な時代を過ごしている我々の感覚をもってこの価値観を軽々に論評すべきではないが、様々な史料に吉良の悪口が証言されていることから、吉良の発した悪口こそが刃傷の直接原因であると断定することができる。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。