第一章 元禄赤穂事件

第一の事件 意趣あり

元禄十四年(一七〇一)二月四日、幕府は朝廷からの年賀の使者をもてなす恒例行事の接待役として、勅使饗応役(天皇の使者を接待する係)に播州赤穂城主浅野内匠頭長矩(三十五歳)、院使饗応役(上皇の使者を接待する係)に伊予吉田領主伊達左京亮宗春(十九歳)を任命。同時に饗応役の指南役として高家肝煎吉良上野介義央(六十一歳)を任命する。

朝廷側は東山天皇の勅使として柳原前大納言資廉(五十八歳)と高野前中納言保春(五十二歳)、仙洞御所霊元上皇の院使に清閑寺前大納言凞定(四十歳)を任命する。因みに、浅野内匠頭は天和三年(一六八三)十七歳の時にも同役を拝命しており、自身二度目の勅使饗応役となる。

この年、幕府は京都宮中への年賀の使者として吉良上野介を派遣しており、吉良は一月十一日に江戸を発ち二十八日には京都に到着している。早速宮中に参内し将軍の代理として東山天皇に賀詞を言上したのち仙洞御所はじめ関係各位を表敬訪問し、それぞれに献上品をお渡ししている。

一連の役目を終えると二月二十四日に京都を発ち二月二十九日には江戸に帰府し将軍に拝謁し使事を復命している。吉良にとっては長旅の疲れに加え大役の気疲れも残っていたであろうが、浅野にとって指南役となる吉良には一刻も早く饗応役拝命の挨拶を済ませておきたいとの一念から、内匠頭は吉良が帰府した当日か翌日には呉服橋(東京都中央区八重洲)の吉良邸を訪問し、それ相応の御進物を持参しているのだが、その僅か二週間後の三月十四日、内匠頭は吉良に対して意趣をもって刃傷に及ぶ事となる。

ここで、浅野内匠頭と吉良上野介の家格ならびに一連の式典における立場を確認しておく。

浅野内匠頭長矩(ながのり)は、豊臣政権で五奉行を務めた戦国武将浅野長政の末裔で、長政の妻彌々(やや) の姉が天下人豊臣秀吉の妻寧々(ねね) であったことから長政は秀吉の義弟にあたる。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦には東軍(徳川軍)として参戦すると長政の三男長重の戦功により下野真岡(栃木県真岡市)二万石を与えられ、長重は慶長七年(一六〇二)に将軍徳川家康の養女を娶っている。慶長十六年(一六一一)父長政の死に伴い長重は常陸真壁五万石を相続している。

続く大坂の陣での武功から近傍の常陸笠間(茨城県笠間市)を賜ると真岡領二万石を幕府に返上し笠間城主となる。この長重が赤穂浅野家の祖となり、長重の嫡男長直が笠間城主だった正保二年(一六四五)播州赤穂へ同じ五万三千五百石をもって移封を命じられる。

笠間城には天守閣が備わっていたにもかかわらず、移転先の赤穂城には天守閣がなかったことから、長直は移封に際して幕府に天守閣の築城を含む城郭周辺の付帯事業を申請し許可を得ている。結果として財政難から天守閣は築城されることはなかったものの、戦国武将として名高い福島正則が水害による石垣の損壊を無断修復したことで広島城を含む五十万石の領地を幕府に没収されたことからすると、赤穂城の築城許可は異例であった。

二代目赤穂城主長友の代に家原浅野家(兵庫県加東市家原)と若狭野浅野家(兵庫県相生市若狭野町)を分家し赤穂浅野家は五万石となっている。刃傷事件の当事者となる長矩は赤穂浅野家三代目城主で官位は従五位下。宗家は長政の長男の家系である芸州安芸浅野家四十二万六千五百石である。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。