第三章 芝居に潜む謎

寺坂吉右衛門

岡平こと寺岡平右衛門の父親で寺岡平蔵のモデルとされる寺坂吉右衛門は三十八歳の時に吉良邸討入りに参加し、その後唯一切腹を免れ八十三歳の生涯を全うした四十七士のなかでも特筆すべき人物であり、また物議を醸してきた人物とも言える。寛文五年(一六六五)に赤穂浅野家の舟形役人寺坂吉左衛門の子として赤穂若狭野に生まれ、八歳の頃から吉田(忠左衛門)家に奉公に出ていたが、元禄四年(一六九一)、吉田忠左衛門が赤穂浅野家の分家家原浅野家の領地加東郡(兵庫県加東市)の郡代に任命されると寺坂も忠左衛門に随い吉田組配下の足軽として穂積(加東市社)で勤仕している。

この年浅野家小役人下村長次郎の娘せんと結婚し、忠左衛門の推挙によって五石二人扶持の赤穂浅野家直臣の足軽となっている。常に忠左衛門に付き随っていたことから、寺坂の身分に関して未だに浅野家の直臣ではなく終生吉田忠左衛門の足軽で浅野家からすると陪臣(また者)であったと誤認されている方がおられるが、寺坂は士分ではないものの歴とした浅野内匠頭の家臣である。

刃傷事件を穂積で知った寺坂は忠左衛門に随行し直ちに赤穂へ戻ってくるが、領地赤穂が召し上げられると、その後も忠左衛門に随い行動を共にしている。赤穂退去後は、忠左衛門が加東郡代当時に親交のあった播州三木黍田(兵庫県小野市)の庄屋小倉家に一時潜居している。その頃、京都山科で蟄居中の大石内蔵助は浅野家再興を願い、粛々と関係筋への働きかけを進めていた。

一方で、江戸では旧主の仇討ち一筋に邁進する堀部弥兵衛、安兵衛親子らを中心とした急進派が勢いを増し、大石ら上方の同志らの江戸下向を強く求めていた。そこで大石は最も信用していた腹心の吉田忠左衛門に江戸急進派鎮撫を命じる。寺坂も忠左衛門に随い黍田から京都に出向いてくる。

この時寺坂の妻せんと息子信保は吉田の家族(吉田の妻りん、次男伝内、次女すえ)とともに播州本徳寺領亀山(兵庫県姫路市飾磨区亀山)に移住している。その後、寺坂も江戸下向に随行し元禄十五年(一七〇二)二月に京都を発っている。

江戸に到着した寺坂はそのまま吉良邸討入りまでの間江戸に潜伏することとなる。元禄十五年(一七〇二)十二月十四日未明の赤穂浪士による吉良邸討入りには寺坂も裏門隊の一員として参加し、引揚げ先である高輪泉岳寺を最後に一党から離れている。

その後寺坂は十二月二十五日に京都の旧浅野家医師寺井玄渓宅を訪問し翌々日の二十七日に家族が住む播州亀山に到着している。翌元禄十六年(一七〇三)六月からは忠左衛門の長女さんの嫁ぎ先である姫路本多家家臣伊藤十郎太夫治興家に世話になっている。

その当時寺坂の伯父にあたる奥野伝蔵と従兄弟の平井文太、平井覚太が伊藤十郎太と同じ姫路本多家に作事方役人や勝手方役人として勤めている。それからの寺坂は、さんの嫁ぎ先である伊藤十郎太夫の主人姫路城主本多家の転封に随い宝永元年(一七〇四)九月に越後村上(新潟県村上市)へ家族と共に転居する。

宝永六年(一七〇九)、世継ぎのないまま城主本多忠孝が亡くなると本多家は断絶の危機に直面するが、本多家が戦国武将本多忠勝から続く名門であったことから幕命により分家筋の継承が叶い、翌宝永七年(一七一〇)、それまでの十五万石から五万石へと大幅に減封されつつ三州刈谷(愛知県刈谷市)へ移封させられ、家臣である伊藤家も減祿されている。

この年三州刈谷で吉田忠左衛門の妻りんが没する。その後寺坂は正徳二年(一七一二)、本多家の下総古河(茨城県古河市)への転封に際しても同道しているが、享保八年(一七二三)には伊藤家から一人離れ江戸麻布(東京都港区)曹渓寺の寺男となっている。

その後、曹渓寺の口利きにより麻布山内家に仕えることとなり、初めて士籍を得ると直後に妻せんを呼び寄せ共に余生を送っている。延享二年(一七四五)九月十三日に長い間連れ添った妻を亡くし麻布曹渓寺に埋葬すると、その二年後、吉良邸討入りから実に四十五年後の延享四年(一七四七)十月六日に寺坂も没している。享年八十三歳。

この年は『仮名手本忠臣蔵』上演の前年にあたっており、寺坂は『仮名手本忠臣蔵』を知らずに他界している。墓は妻と同じ麻布曹渓寺にあり(非公開)、戒名は「節岸了貞信士」。高輪泉岳寺の赤穂浪士墓域には、彼らと同列に「遂道退身信士」の戒名が彫られた墓石が建立されているが、後年建てられた寺坂の供養墓である。

また、寺坂は討入り以降一時姿を眩ました時期があったことから寺坂の逸話が派生し、高輪泉岳寺の義士墓域以外にも寺坂吉右衛門のものとされる墓が日本全国に点在している。寺坂は討入り後の高輪泉岳寺で確認されたのを最後に一党から離れているが、このことがのちに大きな波紋を広げることとなる。

そして、討入り後に寺坂が一党から離脱した行為に対して相反する二つの説が浮上することになる。一つは大石ら上層部から密命を受けたとする寺坂密使説。そしてもう一つは寺坂が自ら欠け落ちて逐電したとする寺坂逃亡説である。どちらを支持するかによって寺坂に対する評価が大きく分れ、赤穂浪士は四十七士かそれとも四十六士なのかという寺坂問題へと発展していくのである。