『赤穂義人録』における最大のポイントは、内匠頭が刃傷に及ぶ直前に吉良が高家衆に向かって発した「鄙野(ひや) の子、しばしば礼に曠(むな)し。また司賓(しひん)の選を辱(はずかし)めざらんや」の文言で、実際に発した言葉とは若干の相違があるとは思われるが趣旨は概ね同じで、刃傷直前に吉良が内匠頭に対して発した具体的な言葉として唯一記された貴重な史料である。

前半のこの日の朝、勅使院使を出迎えるのに、玄関式台の上か下かについて内匠頭が吉良に尋ねるシーンは多くの映画やドラマに登場するのでご存じの方も多いと思われるが出典はここにある。

この一件については、同役で院使饗応役の伊達家と綿密な打ち合わせをしてさえいれば、全く問題にならなかったはずであるが、藩祖浅野長政と伊達正宗との間に確執が生じており、浅野家と伊達家は「不通」(大名家同士一切の関わりや交際をしない)の間柄にあったことから、今回の饗応役に関しても両家は全く情報交換をしていない。この関係は当時珍しくはなく、他にも津軽家と南部家、前田家と丹羽家、黒田家と細川家などが不通の関係にあったと言われている。

松之廊下の一件については、梶川与惣兵衛もこの時の様子を晩年になって書き残している。『梶川与惣兵衛日記』通称『梶川氏日記』と呼ばれ、事件を最も間近で目撃した本人の証言だけに、その内容は一級史料であることは間違いない。そこで『梶川氏日記』の中に見える松之廊下での刃傷事件の前後を抜粋してみる。

……さて、大廊下御縁の方、角柱の辺より見やり候へば、大廣間の方御障子際に内匠左京両人被居、夫より御白書院の御杉戸の間二三間を置き候て、高家衆大勢被居候體見え候間、右の坊主に、吉良殿を呼びくれ候様申候へば、参り候て即立帰り、吉良殿には只今御老中方より御用の儀之有候て参られ候由申聞候、左候はば内匠殿を呼参り候やう申遣し候處、即内匠殿被参候故、拙者儀今日伝奏衆へ御臺様よりの御使を相勤め候間、諸事宜しき様頼入由申候、内匠殿心得候とて本座へ被帰候、其後御白書院の方を見候へば、吉良殿御白書院の方より来たり申され候故、

又坊主呼に遣し、其段吉良殿へ申候へば、承知の由にて此方へ被参候間、拙者大廣間の方御休息の間の障子明て有之、夫より大廣間の方へ出候て、角柱より六七間も可有之處にて双方より出合い、互に立居候て、今日御使の刻限早く相成候儀を一言二言申候處、誰やらん吉良殿の後より、聲を掛け切付け候申候(其太刀音は強く聞え候へども、後に承り候へば、存じの外切れ不申、淺手にて有之候)、

我等も驚き見候へば、御馳走人の淺野内匠殿なり、上野介殿是れはとて、後の方へ振り向き申され候處を又切付けられ候故、我等方へ向きて逃げんとされし處を、又二太刀ほど切られ申候、上野介其儘うつ向に倒れ申され候、其時に我等内匠殿へ飛かかり申候(吉良殿倒れ候と大かたとたんにて、間合は二足か三足程のことにて組付候様に覺之申候)、

右の節、我等片手は内匠殿小さ刀の鍔に當り候故、それともに押付けすくめ申候、其内に近所に居合申されし高家衆、幷に内匠殿同役左京殿などかけ付けられ、其外坊主共も見及候處に居合候者共、追々かけ來たり取りおさへ申候、さて最前倒れ申候上野介殿を尋ね候へども、一向に見え申さず、右の騒ぎの中に、何人か介抱いたし引退き候や、其近所には見え申さず候、

……梶川は松之廊下での刃傷事件以前のことには全く関与しておらず、自身が松之廊下付近に来てからの証言で、その内容は先の『赤穂義人録』にある記述とほぼ同じで相互において全く齟齬はない。

さらに『梶川氏日記』には、内匠殿をば大広間の後の方へ何れも大勢にて取囲み参り申し候。その節内匠殿申され候は、上野介事此間中意趣之有り候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非に及び申さず討果たし候……との記述がある。

この内匠頭の証言により、刃傷そのものは偶発的に発生したものであるが、内匠頭にとっては以前から上野介に対して意趣があったことがはっきりと確認することができる。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。