彼は、母親を守れなかったと言ったが、彼は母性愛を求め、さまよい、色んな女を抱いたに違いない。私を遠ざけている今も、誰かを抱いているかもしれない。私は処女だと告白した事を後悔した。

十月になり、私はやっと彼に電話した。彼は何事もなかったように、明るい声だった。

私は十一日の日曜日に、マンションへ行った。やはりリビングで裸になり、彼は黙ってキャンバスに筆を走らせていた。

私は話しかけたかったが、余計な事をしゃべって、また彼を傷つける気がして、黙っていた。油の匂いは、もう気にならなかった。それより彼の沈黙が淋しかった。

「音楽はかけないの?」と私はやっと勇気をだして言った。「そうだね。……ビリー・ジョエルでもいいかい?」と彼が言った。

「何でもいいわ」と私は答えた。とにかく静かすぎて苦しかった。

彼がステレオのところへ行き、CDを探し、セットしたようだった。『素顔のままで』が流れ始めた。

「ビリー・ジョエルが好きだったの?」
「あぁ、彼の伸びやかな声がね」

※本記事は、2019年6月刊行の書籍『愛』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。