徳川への反抗心と改姓固辞

私:次は反骨心つながりで、「源」氏への改姓拒否について話そう。相手は天海だ。天海が利常に勧告したのは1641年で、利常が小松に隠居して2年後のこと。しかし利常は「源」を名乗らず、「菅原姓」に固執した。

N:菅原道真の菅原ですか?

私:そうだね。このころの天海は禁教令と檀家制度の徹底を求め始めていた。改姓問題はその最中に起こった。名乗りというのは微妙なもので……。

N:利常は松平筑前守利常で、利長は羽柴肥前守利長でしょ。

私:羽柴肥前守利長は利長の気骨も表しているが、同時に、徳川の気骨でもある。

N:どういうことでしょう?

私:利長を徳川と認めていないがゆえに、松平を名乗らせない。

N:だとすると徳川(天海)は利常を100%徳川側の人間だと評価しているわけですよね。

私:ことはそう簡単ではない。家光は利常を牽制した。

N:何を?

私:右近以来の加賀のキリスト教信仰をね。大聖寺藩史が伝えるところによると、家光は利常の日常を利治(利常3男・初代大聖寺藩主)が音を上げるほどしつこく尋ねている。キリスト教信仰の尻尾を掴もうとしたのだろう。

※本記事は、2020年5月刊行の書籍『古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。