15 秋の月影

「うさぎ うさぎ なにみてはねる 十五夜おつきさんみてはねる……」

新暦の八月は夏真っ盛りだが、旧暦の八月はお月見の季節だ。八月十五夜は中国でもお祝いされる。

日本では十五夜だけでなく、九月十三夜にも大豆や栗をおそなえする十三夜月見が伝わる。夜の月を愛でながら、良いことが起こるように念じて行う。「豆名月」に「栗名月」は、人を誘って共に盃をかわす風習だった。

旧暦八月半ば、仲秋の名月の頃である。色を変え、散り敷かれた木の葉を踏みしめて、涼しい秋の風をほほに受けながら歩く旅僧がいた。かの有名な西行法師その人である。

和歌の神である住吉明神に詣でるため旅をしていた西行は、一夜の宿を借りようとある板葺きのあばら屋を訪ねる。住んでいたのは翁、媼の老夫婦。翁は「屋根に雨の当たる音を聞きたい、屋根を葺こう」と言い、媼は「屋根の隙間から漏れる月の光も捨てがたい」と反論し、お互いに譲らない。

にわかに降りくる村雨の音、仲秋の名月の影、どちらを取るか。半分だけ屋根の葺かれた小屋で言い争う老夫婦は大変な風流好みだ。どんな気まぐれか、翁は宿を乞う西行に「宿を貸すには条件がある」と告げる。

「賤が軒端を葺きぞわづらふ(このあばら屋の軒端をどう葺こうか、迷っている)」と、翁がふと口を突いて出た和歌の下の句を西行に詠みかけて、「見事な上の句をつけることができれば、一夜の宿をお貸し申そう」と言うのだ。もちろん後世に名を残す歌人のこと、西行は「月は漏れ雨はたまれととにかくに(月の光が漏れ、雨水はしたたり落ちてくるので困っている。風流なことだが)」と鮮やかに上の句を繫げ、ついに宿を共にすることになった。

折しも静かな秋の夜。三人は落つる木の葉や、村雨の音かと聞き紛うような風の音を愛でる。夜更け、眠りに落ちた西行のもとに現れたのは、神官の体を借りた住吉の明神。実はこのあばら屋の老夫婦こそ、西行の旅の目的である明神そのものだったのである。

明神は和歌の功徳を朗々と褒め称えると、颯爽と天に上がっていく。かくして「能」の『雨月』の一曲は余情を残しつつ終わる……。

人の心に宿る、優しい情念を歌い込むのが和歌だ。月の影はいつの世にも変わらない。その光の優しさと、心の揺れ動きから生まれた和歌は、人から人の心を揺り動かし、心から心へと伝わるものなのだろう。