第一章 青天霹靂 あと377日

二〇一六年

三月七日(月)曇

私の顔を見るなり、「朗報だよ」と母が言った。……けれど口は重く、しばらく待った後、「何か良い事があったのかい」と聞けば、「良いこと……、ありました」と、妙な口調で言ったが、それきり口を開かなくなってしまった。

仕方なく、「お母さんに赤ちゃんでも出来たのかい」と、冗談を言って笑わせようとしたが今日は笑ってくれない。

ただ、私が言った“赤ちゃん”の言葉に反応し、「赤ちゃん、ありがとう。赤ちゃん、ありがとう……。ありがとう、ありがとう、ありがとう……」と、針のとんだレコードのように繰り返す。

その表情は、何か別の言葉を言おうとしているのに、開く口から出てくるのは「ありがとう」の一言ばかりで、母当人も「あれ、変だな。どうしたんだろう……」と、困惑しているかに見える。

兄がいた二日間は母にとっても楽しい出来事であり、それゆえ、潮の引いた海の闇のような悄愴(しょうそう)が母を一変させてしまったのだろうか……。

母の気を紛らわすべく、「今日は俺も良いことがあったんだよ……」と、小さなログハウスの注文があった旨を話すと、母はようやく嬉しそうな笑顔を見せた。

子の幸いが親の何よりな喜びなのだ。

認知症のまだら惚(ぼ)けのような状態が、メトロノームのように行ったり来たりしているのか……。いよいよ心配は募る。