前哨 旅立つ支度

人は何年も前から少しずつ死ぬ準備をはじめる。そして、いよいよという時、無意識のうちにその時が近いことを悟るらしい。

二〇一五年、母はその年、前から行きたいと思っていた処、やりたいと思っていた事の全てをやった。


生まれてはじめての“東京タワー”
生まれて初めての“ちひろ美術館”
生まれてはじめての“カヌーこぎ”
生まれてはじめての“ホタル狩りボート”

夏の初めのある日、「青木湖のホタルが見たい……」と、ボートツアーに出かけた日の夕暮れの事である……。

「真綿をズーンと伸ばしたような雲だねぇー」

そう母は言ったが、その描写は実に言い得ていた。

母は、「子供のころ、母ちゃんがね、古い布団をといてチャンチャンコつくってくれたんだよ……」と、話してくれた。その時の伸ばした綿の感じとそっくりなのだと。

信州の人は平均寿命が長いと言われるけれど、それはきっと、食生活のことばかりではないのだと思う。こうして、美しい景色を眺めているだけで、人はたぶん、寿命が延びるのではないだろうか……。

母は、「やっぱり安曇野に越して来て良かったねぇー。こんな景色、都会にいたんじゃ絶対に見られないもんね」と、何度も繰り返し言った。湖上に瞬く闇のホタルを見ながら、「こんな凄いのカズにも見せてやりたいねぇー」と、母が言ったその数日後、久しぶりに埼玉・川口に暮らす兄、和雄から母へ電話があった。

[写真] 安曇野の夕景


生まれてはじめての“水陸両用バス”
生まれてはじめての“天龍舟下り”
そして、大好きな“打ち上げ花火”を駒ヶ根の空に驚嘆

「たまには三人で旅行でも行くか……」という、柄でもない兄の気まぐれな提案は、奇しくも母に“冥土の土産”を託すことになった。血のつながりとは不思議なもので、思春期のころから何十年も仇(かたき)のごとく絶縁していた兄弟が、母の存在を鎹(かすがい)とし、その母への最後の孝行をしようとしている。

「オレはいったい、あと何度ギラギラするような夏をすごす事ができるだろうか。ただ暑いだけの夏なら誰にだって毎年やってくる。でもそうじゃない、ギラギラする熱い夏だよ」

昔、誰かがラジオで言っていたのを印象的に覚えている。まさに、母のあの夏はギラギラと輝いていた。

※本記事は、2020年7月刊行の書籍『ありがとうをもう一度』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。