前哨 旅立つ支度


名もなき陶工(もの)の回顧展……そして運命の足音

備前焼陶工・國田民旗(くにたたみき)は、売らない作家であった。 生業(なりわい)である其れを、誰かに売ろうとしない妙な男だった。さらには、たまの壊れ作をも、愛おしむ如く大事に残し傍らに置いた。「金に窮し、我が子を売る親がいますか」「不出来な子だとて捨てられる親がいますか」と、いうのが國田民旗の信条であったわけだ。

[写真1]備前焼陶工・國田民旗氏

大枚を積まれようとも首を縦にふらずのに、それでいて、気にいった相手には只で呉れてやるという困った男だったと、彼を知る誰もが言った。それゆえ國田は、生涯、清貧(せいひん)の暮らしに甘んじ、それとは逆に、膨大な作品の山を此処に遺した。

十三年ほど前、西日本から九州を一人旅したことがある。その行きずり、福岡の窯元で一期一会の知己を得た國田氏が去年六月に永眠した。享年六五、幼少よりの持病であった肺疾患による。それで、その友人だという男から「遺品分けをしたいので来てはくれまいか」と云う旨の電話をもらった。

母との二人旅史上最長となる一ヶ月ちかくの九州〜備前の旅も、今に思えば、母にとり、また私にとっての大きな記念イベントになった。

そしてこの秋、預かり持ち帰った作品を披露し、「土塊(つちくれ)に込めた遺響(いきょう)」と題した國田氏の回顧展を安曇野でやることになった。

母もその開催をひどく楽しみにしており、それゆえなのかどうか、その期間はどうにか耐え、終わった翌日、母は突如倒れることになる。

[写真2]安曇野で開催した國田氏の回顧展「土塊に込めた遺響」

[写真3]國田氏の作品

國田展開催初日の朝、母がアパートのドアを開け外へ出ると、いつものように近所の子供たちが五〜六人ほど寄ってきて、「お婆ちゃんどこ行くの……」と、皆でワイワイはじまった。「ほら見て、縄跳びするから、お婆ちゃん見ていて……」と、男の子が言い、「お婆ちゃん、これあげる」と、女の子が小さな花をくれた。

車へ乗り込むべく「よっこらしょ!」と、掛け声を出すも、母の右足は意に従わず一向に上がらない。子供たちの後押しでようよう這い上がりはしたものの、どうも様子がおかしい。

そう言えば、数日前から若干の不調を訴え、「近いうちにマッサージに連れていって……」と、言われていたのを思い出し、「後で整骨か整形にでも行こうか」と、私が聞くと、「うーん……」と、力なく答えたきり神妙な面持ちで口をつぐんだ。

きっと、その時は自分が何か尋常ではない病気に冒されつつあることを察し、経験上から、その正体を探ろうとしていたのだろう。

夕方になり、「病院、どうする?」と聞くと、「今はもう何ともないから、一晩休んで考える……」とだけ言って車を降りた。

翌朝、母を迎えに出ようとした時、母からの電話が鳴った。

「今ね、耳鼻科にいるから、家じゃなく、こっちに来てちょうだい……」

つまり母は、この俄(にわ)かな体調不良を、頭や身体ではなく三半規管の問題ではないかと自己診断したのだ。

これまでに五回もの脳梗塞(のうこうそく)を起こし、その全てを医者よりも先に自覚して、結果、克服させ後遺症も残していない母だ。たしかに、その経験から来る勘を先ずは頼ったのも無理はない。

「それで、どうだったの……?」

「うん、何にも異常は無いってさ。こうやって、いちおう診てもらっておけば安心じゃない。もう心配しないでいいよ」と、母はあっけらかんとしていた。

耳鼻科の先生が異常は無いと言うのは、あくまで耳の病気ではないというだけの事であり、無論、頭の中まで判るわけではない。その単純な事実に、その時、母と私は気づいていなかった。

[写真4]陶芸展会場にて、どこか虚ろな母
※本記事は、2020年7月刊行の書籍『ありがとうをもう一度』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。