緒言 オルゴールがおわるまで

「三年で子ができねかったら離婚だすけな!」と、明治女の姑にきつくされつづけた二年目の夏、待望の長男、和雄は産まれた。産まれはしたものの、その身はわずか一八〇〇グラムの未熟児で、「この子は生きられないかもしれない」と、誰もが思った。ところが、そんな心配をよそに、翌年の「赤ちゃん大会」では準優勝するほど健やかに育ち、そのまま今に至った。

[写真1] 1961年、長男・和雄を抱いて

折しも、私が母の胎内に宿ったのはそんな時である。けれど当時、我が家の暮らしは決して楽ではなく、「跡取りは一人いればいいすけ、さっさと堕胎(おろ)してこいて!」と、父は言い放った。

気が進まぬまま産院へ行くも、手術費用が足りず日を延べ、そのうちに堕胎(だたい)可能な時期は過ぎてしまった。母の手にわずかな金が無かったお陰で、私はこの世に生を得たというわけだ。

保険会社に勤める父の転勤に伴い、東京、鎌倉、横浜、再び新潟と、転居を繰り返す慌ただしい暮らしを過ごしていた。そんな中、夜間高校出の中途入社だった父は、先輩・古参を踏み台にし、三十代半ばにして営業所長にと成り上がっていた。

それ故のストレスのはけ口が母に向かっても不思議ではない。その頃、既に夫婦の形は半分体(てい)をなしておらず、結婚九年目にして騒動は起きた……。

毎晩、会議だ接待だと称して深夜まで帰ってこず、たまに早く帰れば、部下をごっそり連れてきて朝まで麻雀。もっとも、高度経済成長期のサラリーマン家庭など内実はどこもそんなもので、酔って手を上げないだけマシだと考えるべきなのだろうが、父の場合ちょっと度をこしていた。

特に、長男で育ったせいもあるのか、典型的な殿様体質で、「亭主の言う事が聞かんねぇのか!」という、理屈のとおらぬ理屈で母を困らせた。ところが反面、一歩家を出たあとの父は実に外面(そとづら)が良く、母が誰に愚痴をこぼしても「まさかぁー」と取り合う者はいなかった。

[写真2] 1963年、鎌倉・材木座海岸にて

とりわけ、新潟の男というものはそうであった。恐ろしく無愛想でニコリともしないくせに、家の外では誠実で物分かりの良い常人を演じる。少なくとも私が知る昭和の越後男たちは、ほぼ例外なくそうであったし、その血筋は私にも少し残っているような気がする。

ある夜のこと……

「口ごたえすんな!」
「口ごたえじゃなくて、意見いってるらけじゃねっけ」
「らっけ意見もすんなて」
「何がそんげに気にいらんのですか」
「てめぇみてぇなバカすけ、言ったって分からんわや」
「言ってくださらんば、なおさら分からんでしょう」
「うるせぇわや、とにかく黙ってれてば!」

と、話にならず、一度機嫌をそこねると、一ヶ月でも二ヶ月でも口をきかず、母を無視しつづけた。母はひたすらに耐え、とうとう、その我慢が限界を越える時がきた。

更にある晩、むしゃくしゃしていた母は、気まぐれでワインの小瓶を買ってきて、私たち子供の寝た後に一人でチビチビ飲んでいた。そこへ、いつもは遅いはずの父が、めずらしく早めに帰宅した。途端に、烈火のごとく雷がおちた。「女が亭主の留守に、家で酒のんでるとは何ごとだや!」と。

さすがの母もついに堪忍袋の緒を切った。

「三味線の棹だて、糸を張りつめたまま立てかけておけば、ある日突然、大きな音たてて折れてしまうんだすけね……。もう、わたしも我慢の限界ですて!」

大見得(おおみえ)をきった母の台詞は決まったが、「なら出てけばいいこて!」の、父の一言で緞帳(どんちょう)はおり、それからの何週間かを私たち兄弟は“母のない子”を演じることになった。

昭和四十三年初夏、盛岡の小さな社宅での出来事である。

※本記事は、2020年7月刊行の書籍『ありがとうをもう一度』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。