第二章 渡来人に支配された古代ヤマト

7.ユダヤ系同士の覇権争い

宇都志=UTU―SI=ユダヤ―の
國玉=国の王

ここに至ってもまだ「UTU」が出てくる。『記紀』神話は、「UTU」とその類語に溢れていると言ってもよいくらいだ。

一般的には「UTU」は美称の接頭語として理解されているが、種々様々な人名・地名・モノの名前などに付随して出てくるので、美称としての統一性に欠け、一般論としては不適切である。

かくしてユダヤ系同士の国譲り戦が始まるのである。結果は、崇神側が圧勝する。敗れた大国主は出雲大社に鎮まり、饒速日は三輪山に祀られた。

両神が祟り神になったことは、前著などで既に述べてある。崇神は、出雲に代わって新たに卑弥呼と結び、戦いの結果を伊都国経由で、魏に報告(遣魏使)したのである。

正式には卑弥呼からの第一回遣魏使として、難升米が朝鮮半島に出かけた。その帯方郡太守劉夏の仲介で、卑弥呼は魏から「親魏倭王」の称号を受けたのである。

また正使の難升米は率善中郎将に、次使の都市牛利は率善校尉に任じられた。国譲り戦では、攻める側の《伊都国王+崇神》は、阿曇氏と結んで制海権の確保を目論み、一方の出雲側は、宗像氏と組んで海の戦いに臨んでいた。

しかし両軍の構成メンバーには、どちらも秦氏が複雑に絡んでいて、布陣内容を一覧表にしないと混乱を来たす。次表は、国譲り戦前の倭国の体制である。

 

ここでは宗像氏は、出雲国の協力氏族として載せているが、宗像三女神がそれぞれ、出雲系首長たちと婚姻関係にあったからである。大国主には多紀理毘賣命と田寸津比賣命の二人が、そして饒速日には市寸島比賣命が嫁いでいる。大国主は、多紀理毘賣との間に阿遲鉏高日子根(迦毛大神)を、また田寸津比賣とは八重事代主を儲けている。

『古事記』には、その三女神の誕生が次のように述べられている。天の安の河における、天照大御神と建速須佐之男命との誓約(うけひ)によって、神々しくも生まれてきた。

天照大御神、まづ建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の佩(は)ける十拳劔(とつかつるぎ)を乞(こ)ひ度(わた)して、三段(みきだ)に打ち折りて、瓊音(ぬなと)ももゆらに、天(あめ)の眞名井(まなゐ)に振り滌(すす)ぎて、さ嚙(が)みに嚙みて、吹き棄(う)つる氣吹(いぶき)のさ霧(ぎり)に成れる神の御名(みな)は、多紀理毘賣(たきりびめの)命。亦の御名は奥津島比賣(おきつしまひめの)命と謂ふ。次に市寸島比賣(いちきしまひめの)命。亦の御名は狭依毘賣(さよりびめの)命と謂ふ。次に多岐都比賣(たきつひめの)命。 三柱

故(かれ)、その先(さき)に生(あ)れし神、多紀理毘賣(たきりびめの)命は、胸形(むなかた)の奥津宮(おきつみや)に坐(ま)す。次に市寸島比賣(いちきしまひめの)命は、胸形の中津宮に坐す。次に田寸津比賣(たきつひめの)命は、胸形の邊津(へつ)宮に坐す。この三柱の神は、胸形君等(むなかたのきみら)のもち拜(いつ)く三前(みまへ)の大神なり。

天孫軍と出雲軍との戦いがユダヤ系同士の覇権争いであることを、一層明確にするためには、宗像氏が秦氏の一族か、または秦氏そのものであることを証明しなくてはならない。書くことは楽しいのだが、次々と難問が待ち構えているので、ゆっくりお昼休みをとっている暇もない。

それを証明できたとしてもさらに、古代ヤマトには秦一族の人数が多過ぎはしないか、という懸念がでてくる。言い換えれば、政治的・社会的な上層部において、秦氏の占める割合が多過ぎないか。ユダヤ系の人々ばかりが目立っていないか。正直に言えば、古代ヤマトの上層部は、ユダヤ系サークルといった感じがある。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。