第一部 私と家族と車イス

日々のいいこと見つけ

そんな地に足がついていなかったのがちょっとずつ地面に足がふれてきてちょっとずつ上向きな考えを持てるようになりながら、でも落ち込む日もありながら、毎日時間は過ぎていった。真実を無理に受け入れず半分でもいいと、受容していったプロセス。

誰もが止まることなく寝ては起きて日々を暮らしているかと思う。私もその中のひとりで、誰かに指摘されながら誰かにちょっとした経験を偉そうに助言をさせていただきながら心を育んでいる最中。人生での経験は羨ましがられる経験だけではない。誰もが厳しい経験を積みながら、こけても、最後まで走りきり、生きている以上、時間は止まってはくれない。

ただ時間だけは生きてる限り与えてもらってる。時には関わった周りの方の時間をもいただいて生きている。感動したかったら感動に変える。上手に休憩所をつくりながら、集中するか、楽しむか、起きるか、寝るか、ぼーっとするかすべて私の意志である。

最終的に私が選択し決定して生きている。そもそもそこが人間として生まれてきた、充実の原点だと感じる。生きていることだけで、本当は、贅沢の極みなのだ。

自己決定して歩んでいる時点でとても私は充実してると感動を体や心で感じられるようになった。毎日が感動だらけではなくとも、心を感動へと向ける努力は陰ながらしていこうと決意した。だから沈まないで読んでほしい。

「普通」なんてない。これを不運とみなすか。

幸運とみなすか。感謝とみなすか。

二度とない経験、二度は要らないなと感じる経験。私と長男、次男、三男にとって、この一つの経験すらも見る角度が異なれば不運かもしれない。一部は幸運かもしれない。当事者の捉え方次第であると実感した。経験から気づきに変えていく作業は、まず無理に受け入れなくても進める選択肢に気づいた。

何が普通なのか何に普通と感じるか……。普通がまず私の固定概念だったことに気づき、急激な変化に立ち往生した日々から解放に向かうまでの経過。

普通なんてどこにもない。普通が一番わからなくなった日々。

特別はどこからなのか普通や一般はどこからなのかの議論をしたら普通の測り方では解決に導けないだろう。次男も一般的な概念の普通から見たら、ただ感受性豊かな子だ。言うなれば視覚刺激に特化しているただそれだけの話。普通に囚われずに関われた。では夫のケースをどう判断していくのか。そこに焦点をあててみる。